韮山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/18 00:50 UTC 版)
(静岡県) |
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韮山城址
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| 別名 | 龍城 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 築城主 | 不明(外山豊前守?) |
| 築城年 | 不明(15世紀末?) |
| 主な改修者 | 北条早雲、後北条氏 |
| 主な城主 | 北条早雲、北条氏規 |
| 廃城年 | 1601年(慶長6年) |
| 遺構 | 水堀、土塁、堀切、郭、虎口、園池、屋敷跡 |
| 指定文化財 | 国の史跡「韮山城跡 附付城跡」 |
| 位置 | 北緯35度03分13.3秒 東経138度57分20.0秒 / 北緯35.053694度 東経138.955556度 |
韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった、室町時代後期から安土桃山時代にかけての日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「韮山城跡 附付城跡」)[1][2]。
概要
15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。
歴史
築城年ははっきりしないが、『北条五代記』によると文明年間(1469年 - 1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。また城内の熊野神社が勧進された年代から、1500年(明応9年)頃までには完成していたとする見解がある[3]。
初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に2代堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって、後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営された。早雲はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。
その後も小田原城を中心に関東を支配する後北条氏の重要拠点の一つとなり、永禄末年には時の当主・北条氏康の四男・氏規が城主として入り、伊豆支配の中心地とした。
元亀元年(1570年)8月に武田信玄の駿河侵攻の際攻められるが、北条氏規が守り切る。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大幅な攻勢を受ける。韮山城にも織田信雄の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約5万と伝えられる大きな戦力差のなかで約100日間も持ちこたえたが、秀吉が派遣した徳川家康が交渉にあたり、北条方諸城の落城を受けついに開城した[4]。
その後、関東に入った家康の家臣の内藤信成の居城としていたが 慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。
現在の韮山城は、その敷地のほとんどがかつての韮山代官江川太郎左衛門の子孫である江川家の持ち物となっている[5]。
2005年(平成17年)12月17日に、韮山城の至近にある韮山高校のOBが中心となって「韮山城を復元する会」を創設した。
城の構造
典型的な平山城であり、丘陵に沿って縦に曲輪が連なっている。現在でも曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されている。武家屋敷や政庁の位置は不明だが、韮山高校のグランドに御座敷という地名が残っており、1990年(平成2年)から1991年(平成3年)にかけて、韮山高校の校舎の建て替え工事に伴い発掘調査が行われており、井戸や園池のほか、屋敷跡と思われる遺構も出土している[6][7]。
脚注
- ^ “文化審議会の答申(史跡名勝天然記念物の指定等)”. 文化庁 (2025年6月20日). 2025年6月20日閲覧。
- ^ 令和7年9月18日文部科学省告示第78号。
- ^ 池谷 2009 pp.178
- ^ 黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、155-178頁。ISBN 978-4-642-06456-9。
- ^ “【日本の名城】韮山城 没するまで居城としていた北条早雲”. ZAKZAK (産経新聞社). (2014年5月10日) 2014年5月10日閲覧。
- ^ 発掘調査に関する出典 : 『韮山城跡』静岡県教育委員会 1992年 より
- ^ 池谷 2009 pp.180
参考文献
外部リンク
- 韮山城跡 - 伊豆の国市
- Shizuoka城と戦国浪漫『韮山城』 - 静岡県文化・観光部 観光局観光振興課
韮山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
韮山城 韮山城の位置 天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いた。 韮山城攻撃軍の編成 合計44,100人右軍 計8,400人(蒲生氏郷 4,000人、稲葉貞通 1,200人) 中軍 計9,700人(筒井定次 1,500人、生駒親正 2,200人、蜂須賀家政 2,500人、福島正則 1,800人、戸田勝隆 1,700人) 左軍 計9,000人(細川忠興 2,700人、森忠政 2,100人、中川秀政 2,000人、山崎片家・岡本良勝等 2,200人) 旗本 織田信雄 17,000人 徳川勢 (江川英長、小笠原丹波など) 韮山城守備軍 約3,640人(城主・北条氏規、朝比奈泰栄、江川英吉(江川太郎左衛門)、富永政家ら) 韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要かつ小田原北条氏の所縁深い同城を守ることとなった。秀吉から先ず開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するが氏規はこれを拒絶した。帰陣した小笠原はただ包囲するだけの大軍を不甲斐なく思い、勝手に攻撃を始めた。これを江川英吉に撃退され、小笠原は討死にした。 秀吉は韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残すよう命じ、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康と黒田孝高を交渉役として開城を迫り、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏開城に応じ、6月24日に家康の家臣内藤信成が城を受け取った。 氏規は以降、小田原開城のための説得工作に尽力した。 城の江川曲輪を守備した在地領主の江川太郎左衛門こと江川英吉であるが、英吉の嫡男の江川英長は開戦直前に出奔し、徳川方として参戦していた。英長は以前から北条氏(江川家)の使者として徳川に送られることがあり、英長が北条家中で揉め事を起こした際は、北条氏規公認で徳川家に避難していたこともある。開城交渉はこの親子もその一端を担った。 氏規は他の兄弟と比較した場合、これまでも総大将的な地位を担ったことはあるが、主に外交交渉面での活躍が目立ち、その武を評価される機会はあまり無かった。しかし氏規は常々、1千や2千の兵を直接采配できる将になりたいと希望していたが、非開戦派としては望んでいなかったはずの籠城戦の大将としてこれが実現してしまった。ここで氏規は籠城戦を善く指揮したため秀吉は氏規を再評価し、織田信雄では城を落とすことはできないと判断して織田勢を小田原城包囲に移動させた、という話が伝わる。
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