韮山城
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韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての日本の城(平山城)。
- ^ 池谷 2009 pp.178
- ^ 黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、155-178頁。ISBN 978-4-642-06456-9。
- ^ “【日本の名城】韮山城 没するまで居城としていた北条早雲”. ZAKZAK (産経新聞社). (2014年5月10日) 2014年5月10日閲覧。
- ^ 発掘調査に関する出典 : 『韮山城跡』静岡県教育委員会 1992年 より
- ^ 池谷 2009 pp.180
韮山城
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韮山城 韮山城の位置 天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いた。 韮山城攻撃軍の編成 合計44,100人右軍 計8,400人(蒲生氏郷 4,000人、稲葉貞通 1,200人) 中軍 計9,700人(筒井定次 1,500人、生駒親正 2,200人、蜂須賀家政 2,500人、福島正則 1,800人、戸田勝隆 1,700人) 左軍 計9,000人(細川忠興 2,700人、森忠政 2,100人、中川秀政 2,000人、山崎片家・岡本良勝等 2,200人) 旗本 織田信雄 17,000人 徳川勢 (江川英長、小笠原丹波など) 韮山城守備軍 約3,640人(城主・北条氏規、朝比奈泰栄、江川英吉(江川太郎左衛門)、富永政家ら) 韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。守将の北条氏規は非開戦派であったが、伊豆国の要かつ小田原北条氏の所縁深い同城を守ることとなった。秀吉から先ず開城交渉を命じられた徳川家康は、小笠原丹波を使者として交渉するが氏規はこれを拒絶した。帰陣した小笠原はただ包囲するだけの大軍を不甲斐なく思い、勝手に攻撃を始めた。これを江川英吉に撃退され、小笠原は討死にした。 秀吉は韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残すよう命じ、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康と黒田孝高を交渉役として開城を迫り、北条領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏開城に応じ、6月24日に家康の家臣内藤信成が城を受け取った。 氏規は以降、小田原開城のための説得工作に尽力した。 城の江川曲輪を守備した在地領主の江川太郎左衛門こと江川英吉であるが、英吉の嫡男の江川英長は開戦直前に出奔し、徳川方として参戦していた。英長は以前から北条氏(江川家)の使者として徳川に送られることがあり、英長が北条家中で揉め事を起こした際は、北条氏規公認で徳川家に避難していたこともある。開城交渉はこの親子もその一端を担った。 氏規は他の兄弟と比較した場合、これまでも総大将的な地位を担ったことはあるが、主に外交交渉面での活躍が目立ち、その武を評価される機会はあまり無かった。しかし氏規は常々、1千や2千の兵を直接采配できる将になりたいと希望していたが、非開戦派としては望んでいなかったはずの籠城戦の大将としてこれが実現してしまった。ここで氏規は籠城戦を善く指揮したため秀吉は氏規を再評価し、織田信雄では城を落とすことはできないと判断して織田勢を小田原城包囲に移動させた、という話が伝わる。
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