今川家の滅亡と松井氏の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:54 UTC 版)
「遠江松井氏」の記事における「今川家の滅亡と松井氏の衰退」の解説
その後、宗信の嫡子・宗恒(八郎・山城守)は父の家督を継いだが、一族の宗親が二俣城主になったとされる。徳川家康の東三河進攻は永禄6年(1563年)の曳馬城主飯尾連竜の反乱を誘発し、いわゆる「遠州忩劇(そうげき)」という西遠の混乱状態を引き起こしたが、今川氏真は飯尾氏の姻戚であった松井宗親を駿府で謀殺したという。その後も氏真は徳川氏・武田氏の進攻による遠江国人衆の動揺を抑えかね、この中で松井氏も徳川方・武田方・今川方に分裂して戦い、元の主家今川家が滅亡すると国人領主としての松井氏の勢力は全く衰えた。結局、徳川家康に属した庶流の松井宗直の系統が徳川氏の旗本として残り、天正18年(1590年)の徳川氏の関東移封に従い上州緑野郡(群馬県藤岡市)に采地を受けて移住した。
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