飯尾氏とは? わかりやすく解説

飯尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 13:33 UTC 版)

飯尾氏(いいのおし、いのおし、いいおし)は、日本氏族。以下の系統がある。

  1. 遠江飯尾氏。三善為康の末裔。
  2. 織田氏支族の飯尾氏。

飯尾氏(三善氏系)

飯尾氏
鉸具 かこ 雁金 かりがね[1]
本姓 三善朝臣
家祖 飯尾倫忠
種別 武家
出身地 山城国
主な根拠地 阿波国麻殖郡飯尾村[2]
遠江国戦国時代
著名な人物 飯尾連龍
凡例 / Category:日本の氏族

本姓は三善氏。三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。元々は室町幕府奉行衆家柄であった。伝承では、飯尾長連の代に駿河国に下り、今川氏譜代の家臣となったと伝えられている。

しかし、『宗長手記』によれば長連は三河吉良氏の家臣で遠江国浜松荘の代官を務めており、今川義忠が遠江に侵攻した際にこれに加勢をしようとしたが、義忠と共に駿河に撤退する際に討たれたと記されている。これを裏付ける史料として、『山科家礼記』応仁2年(1468年)7月5日条に「吉良殿内飯尾善四郎」という人名が記載されていることが挙げられる。善四郎は飯尾氏代々の当主通称であり、飯尾氏が今川氏譜代ではなく吉良氏家臣であった事実を裏付けている。吉良氏の家臣には巨海氏や狩野氏のように義忠に抵抗した者もおり、今川派の長連は彼らとの争いに敗れたと考えられている。その後、吉良氏は遠江守護の斯波氏の要請に応える形で長連の子である賢連ではなく、親・斯波氏とみられた大河内貞綱代官に任じている。吉良氏はこの争いには中立を保とうとしたようであるが、浜松荘と引馬城(後の浜松城)を巡って貞綱を支持する斯波義達と賢連を支持する今川氏親が争う形となり、永正5年(1508年)に今川氏親が斯波義達から遠江守護職を奪い、永正14年(1517年)には斯波義達を捕虜として遠江全域を支配した。その結果、吉良義堯は今川氏親の娘婿となって和睦する代わりに遠江から撤退し、飯尾賢連は氏親から浜松荘と引馬城を与えられて今川氏の被官となった[3]

戦国時代、賢連の子乗連今川義元桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。乗連の子飯尾連龍は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連龍が誅殺されたために、飯尾氏の嫡流絶家した。

系譜

三善為康
 
 
 
 
 
 
 
(略)
 
 
 
 
 
 
 
飯尾倫忠
 
 
 
 
倫秀
 
 
 
 
倫章
 
 
 
 
貞行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞倫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞幸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
章運
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
親実
 
貞連
 
光成
 
元連
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長連
 
貞孝
 
 
 
 
 
兼連
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
賢連
 
為清
 
 
 
 
 
 
 
 
乗連
 
為実
 
 
 
 
 
 
 
 
連龍
 
到実

飯尾氏(織田氏支族)

飯尾氏
(織田氏支族)
本姓 桓武平氏
忌部(斎部)宿禰
家祖 飯尾定宗
種別 武家
出身地 尾張国
主な根拠地 尾張国
著名な人物 飯尾尚清
支流、分家 永沼氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

織田氏の一族清洲の守護代「織田大和守家」の織田敏宗(または織田敏定)の子が尾張国土豪飯尾氏の養子となり、飯尾定宗と名乗ったことに始まる。定宗は織田信長に仕え、桶狭間の戦い討ち死にした。定宗の跡を継いだ尚清(信宗)赤母衣衆となり、本能寺の変後、織田信雄、さらに豊臣秀吉に仕えた。嫡子敏成は尚清に先立って死去していたため嫡流は絶家したが、庶流の尚清の飯尾重宗の系統が続く。重宗には嫡子敏隆がいたが早世したため、敏成の弟を養子として永沼と名乗らせた。


系譜

織田敏宗
織田敏定?)
 
飯尾定宗
 
尚清(信宗)
 
敏成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗敏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重宗
 
敏隆
 
宗敏
 
 
 
                            

脚注

  1. ^ 鉸具(かこ)紋
  2. ^ 西尾村飯尾、のち鴨島町飯尾、現・吉野川市鴨島町飯尾飯尾川流域
  3. ^ 谷口雄太 著「戦国期における三河吉良氏の動向」『戦国史研究』66号、2013年平成25年)。/所収:谷口雄太 著 『中世足利氏の血統と権威』 (吉川弘文館2019年令和元年)11月、P40 - 48.

関連項目

外部リンク



飯尾氏(三善氏系)

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「飯尾氏」の記事における「飯尾氏(三善氏系)」の解説

本姓三善氏三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。元々は室町幕府奉行衆家柄であった伝承では、飯尾長連の代に駿河国下り今川氏譜代家臣となった伝えられている。 しかし、『宗長手記によれば長連三河吉良氏家臣遠江国浜松荘代官務めており、今川義忠遠江侵攻した際にこれに加勢をしようとしたが、義忠と共に駿河撤退する際に討たれたと記されている。これを裏付ける史料として、『山科家礼記応仁2年1468年7月5日条に「吉良殿内飯尾四郎」という人名記載されていることが挙げられる。善四郎は飯尾氏代々当主通称であり、飯尾氏が今川氏譜代ではなく吉良氏家臣であった事実裏付けている。吉良氏家臣には巨海氏や狩野氏のように義忠抵抗した者もおり、今川派の長連は彼らとの争い敗れた考えられている。その後吉良氏遠江守護の斯波氏要請応える形で長連の子である賢連ではなく、親斯波氏とみられた大河内貞綱代官任じている。吉良氏はこの争いには中立保とうとしたようであるが、浜松荘引馬城(後の浜松城)を巡って貞綱を支持する斯波義達と賢連を支持する今川氏親が争う形となり、永正5年1508年)に今川氏親斯波義達から遠江守護職を奪い永正14年1517年)には斯波義達捕虜として遠江全域支配したその結果吉良義堯今川氏親娘婿となって和睦する代わりに遠江から撤退し飯尾賢連氏親から浜松荘引馬城与えられ今川氏被官となった戦国時代、賢連の子乗連は今川義元桶狭間の戦い従軍し討ち死にした。乗連の子飯尾連竜初め義元の跡を受けて家督継いだ今川氏真仕えたが、三河徳川氏内通し今川氏から離反したその後今川氏真から和睦偽った召喚応じた連竜が誅殺されたために、飯尾氏の嫡流絶家した。

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