今川氏・吉良氏・飯尾氏時代とは? わかりやすく解説

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今川氏・吉良氏・飯尾氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:56 UTC 版)

浜松城」の記事における「今川氏・吉良氏・飯尾氏時代」の解説

浜松城以前曳馬城引馬城引間城)が浜松拠点だった。築城者については諸説あるが、今川貞相初め築城したという。ただし、室町時代中期には三河国吉良氏支配していたことが判明している。 斯波氏今川氏抗争すると、吉良氏家臣団の中で斯波氏味方する大河内貞綱今川氏味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い斯波氏今川氏敗れると吉良氏浜松支配権失った永正11年1514年)、今川氏親から曳馬城与えられ飯尾氏正式に今川氏家臣となった。乗連は今川氏引き続き仕え桶狭間の戦いにも参加した桶狭間の戦いにおいて今川義元戦死する今川氏衰退が始まるが、この時期飯尾氏当主も乗連から子の連竜へと移り変わる今川氏衰退後城主飯尾連竜今川氏真反旗疑惑をもたれ、永禄8年1565年)に今川軍攻囲され多大な損害を被るが、陥落免れた。この時今川からの和議勧告受諾した連竜は、戦後今川氏再属のため駿府への大赦御礼出向いたが、和議謀略で、連竜は殺された。以後曳馬城は、連竜の家老江間氏によって守られる城内徳川派と武田派に分裂して内紛起きていたため徳川家康によって早期攻略された。一説ではその後、連竜の未亡人お田鶴の方中心とした飯尾氏残党によって守られるが、家康永禄11年1568年12月お田鶴の方使者送り城を渡せば妻子共々面倒を見る降伏促すお田鶴の方拒否し続けたため、家康が兵を使って攻め込みお田鶴の方城兵指揮して奮戦した侍女と共に討死にした。また、お田鶴の方祀った椿姫観音」が城の近く残っている。

※この「今川氏・吉良氏・飯尾氏時代」の解説は、「浜松城」の解説の一部です。
「今川氏・吉良氏・飯尾氏時代」を含む「浜松城」の記事については、「浜松城」の概要を参照ください。

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