今川氏の助力で失地回復とは? わかりやすく解説

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今川氏の助力で失地回復

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:18 UTC 版)

牧野保成」の記事における「今川氏の助力で失地回復」の解説

天文15年1544年9月28日付の今川家発給文書により、渥美郡吉田城周辺牧野保成所領認められるとされる。保成はこの年今川義元東三河地方への出陣先立ち今川家との数通の文書やり取りによって、先年戸田氏等による自領の失地回復できるように請願しており、太原雪斎朝比奈泰能朝比奈親徳両朝比奈氏等の今川家重臣の裏書き書判得ていた。そして保成は、この頃には吉田城主の牧野田蔵系通称・田三郎称している(「天文十五丙午九月廿八日牧野三郎成条書写」)。 義元同年11月天野景泰安芸守)等の率い駿・遠軍勢松平広忠家臣酒井忠尚石川忠成阿部定吉を将とする西三河勢を東三河入れ天文6年1537年)より吉田城占拠していた戸田宣成(金七郎)に対し攻城戦のすえに討滅し、吉田城支配下置いたのである。そして、この時に牧野保成吉田城周辺牧野氏旧領返付したと思われる。しかし、約束されていた城主地位牧野氏戻されないまま、保成は今川氏の置く城代初め伊東実の小原鎮実)の軍事指揮権服していたと考えられるこの頃より、牧野保成今川氏勢力背景東三河牧野一族惣領確保した考えられるが、反面それは戦国大名今川氏への依存度を高めることになった天文22年1553年)には御津豊川市)の大恩寺阿弥陀堂棟札に「牧野出羽守保成」と記し息子の田三郎成元・甥の牧野右馬允成守(『牧野家系図』では成守は成定の前名とされる。)と共に阿弥陀堂再興寄進大旦那務めた棟札銘文には「家督 伝三良成元」の署名から、保成はその時点で息子元に既に家督譲渡していたことが判る

※この「今川氏の助力で失地回復」の解説は、「牧野保成」の解説の一部です。
「今川氏の助力で失地回復」を含む「牧野保成」の記事については、「牧野保成」の概要を参照ください。

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