今川氏の助力で失地回復
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天文15年(1544年)9月28日付の今川家発給文書により、渥美郡の吉田城周辺に牧野保成の所領が認められるとされる。保成はこの年の今川義元の東三河地方への出陣に先立ち、今川家との数通の文書のやり取りによって、先年の戸田氏等による自領の失地を回復できるように請願しており、太原雪斎や朝比奈泰能・朝比奈親徳の両朝比奈氏等の今川家重臣の裏書き書判を得ていた。そして保成は、この頃には吉田城主の牧野田蔵系の通称・田三郎を称している(「天文十五年丙午九月廿八日、牧野田三郎保成条書写」)。 義元は同年11月に天野景泰(安芸守)等の率いる駿・遠の軍勢と松平広忠家臣の酒井忠尚・石川忠成・阿部定吉を将とする西三河勢を東三河に入れ、天文6年(1537年)より吉田城を占拠していた戸田宣成(金七郎)に対し、攻城戦のすえに討滅し、吉田城を支配下に置いたのである。そして、この時に牧野保成へ吉田城周辺の牧野氏旧領を返付したと思われる。しかし、約束されていた城主の地位は牧野氏に戻されないまま、保成は今川氏の置く城代(初め伊東元実のち小原鎮実)の軍事指揮権に服していたと考えられる。この頃より、牧野保成は今川氏の勢力を背景に東三河の牧野一族の惣領権を確保したと考えられるが、反面それは戦国大名今川氏への依存度を高めることになった。 天文22年(1553年)には御津(豊川市)の大恩寺阿弥陀堂の棟札に「牧野出羽守保成」と記し、息子の田三郎成元・甥の牧野右馬允成守(『牧野家系図』では成守は成定の前名とされる。)と共に同阿弥陀堂の再興寄進の大旦那を務めた。棟札銘文には「家督 伝三良成元」の署名から、保成はその時点で息子成元に既に家督を譲渡していたことが判る。
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