今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子
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「河東の乱」の記事における「今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子」の解説
今川義忠の死後に発生した家督争いは、義忠の遺児である龍王丸(後の今川氏親)を後見していた室町幕府官僚出身の叔父・伊勢盛時(北条早雲)によって収められ、その功績で駿河国富士郡下方地域(潤井川左岸)を与えられ、駿東郡南部にあった興国寺城に入った(異説あり)。その後、盛時は伊豆国を平定し、さらに相模国・駿河国の国境地域を支配していた大森氏を破って小田原城を手に入れた。盛時は立場的には氏親の家臣であり、氏親を「屋形様」と仰いでその軍事作戦に従事しているが、伊豆国および大森領の制圧は盛時独自の軍事行動であったと内外からは認識されていた。また、大森氏は駿河国駿東郡の北部を支配していたものの、相模を支配していた扇谷上杉家と主従関係を結んでいたため、その地域には長く今川氏の影響力が及んでいなかった。このため、富士郡や駿東郡南部に関しては今川氏は盛時よりも上位権力者としての権限を行使できるが、伊豆国および駿東郡北部では盛時が排他的な支配権を確立して今川氏は上位権力にはなり得なかった。 こうした二重構造は、盛時自身の意識は別として、伊勢氏を自らの被官とみなす今川氏と、伊豆一国を支配する今川氏と対等の存在と意識する盛時の家中との間で認識のずれとなって現れる。永正16年(1519年)、伊豆・相模両国の支配を確立していた伊勢盛時が死去して息子の氏綱が継ぐと、血縁関係に由来する両氏の主従関係が崩れることになる。その頃、今川氏親は甲斐の武田氏と抗争を続けており、永正17年(1520年)に甲斐に侵攻した。ところが、それまで甲斐遠征に従軍してきた伊勢氏は従軍を拒絶する姿勢を示した。また、大永5年(1525年)には北条氏綱(大永年間初頭に北条と改姓)が武田氏と和睦をしてただちにその武田氏と開戦するという不可思議な行動に出ている。これは、今川氏の家臣としての武田氏との抗争からは離脱する一方で、伊豆・相模の支配者として武田氏とその支配を争っていた津久井城を確保するために戦端を開いたと理解できる。一方、今川氏親も、軍事行動への参加を拒否して自立を強める氏綱に対して父・盛時に与えた富士郡などの所領を安堵しなかったとみられている。
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