今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子とは? わかりやすく解説

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今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 06:09 UTC 版)

河東の乱」の記事における「今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子」の解説

今川義忠死後発生した家督争いは、義忠遺児である龍王丸(後の今川氏親)を後見していた室町幕府官僚出身叔父伊勢盛時北条早雲)によって収められ、その功績駿河国富士郡下方地域潤井川左岸)を与えられ駿東郡南部にあった興国寺城入った異説あり)。その後盛時伊豆国平定し、さらに相模国駿河国国境地域支配していた大森氏破って小田原城手に入れた盛時立場的には氏親家臣であり、氏親を「屋形様」と仰いでその軍事作戦従事しているが、伊豆国および大森領の制圧盛時独自の軍事行動であった内外からは認識されていた。また、大森氏駿河国駿東郡北部支配していたものの、相模支配していた扇谷上杉家主従関係結んでいたため、その地域には長く今川氏影響力及んでいなかった。このため富士郡駿東郡南部に関して今川氏盛時よりも上位権力者としての権限行使できるが、伊豆国および駿東郡北部では盛時排他的な支配権確立して今川氏上位権力にはなり得なかった。 こうした二重構造は、盛時自身意識は別として、伊勢氏を自らの被官とみなす今川氏と、伊豆一国支配する今川氏対等存在意識する盛時家中との間で認識のずれとなって現れる永正16年1519年)、伊豆・相模両国支配確立していた伊勢盛時死去して息子の氏綱が継ぐと、血縁関係由来する両氏主従関係崩れることになる。その頃今川氏親甲斐武田氏抗争続けており、永正17年1520年)に甲斐侵攻した。ところが、それまで甲斐遠征従軍してきた伊勢氏従軍拒絶する姿勢示したまた、大永5年1525年)には北条氏綱大永年間初頭北条改姓)が武田氏和睦をしてただちにその武田氏開戦するという不可思議な行動出ている。これは、今川氏家臣としての武田氏との抗争からは離脱する一方で伊豆・相模支配者として武田氏とその支配争っていた津久井城確保するために戦端開いた理解できる一方今川氏親も、軍事行動への参加拒否して自立強める氏綱に対して父・盛時与えた富士郡などの所領安堵しなかったとみられている。

※この「今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子」の解説は、「河東の乱」の解説の一部です。
「今川氏と伊勢盛時・北条氏綱父子」を含む「河東の乱」の記事については、「河東の乱」の概要を参照ください。

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