武田氏との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 13:52 UTC 版)
永禄3年(1560年)9月の長尾景虎(上杉謙信)の上野侵攻に際しては上杉方に参陣し、総社長尾氏の同心とされた。この際人質として次男を差し出している。『関東幕注文』では碓氷郡の国衆のうち安中氏の他に諏訪・依田氏の名前は確認されているが飽間氏の名前が確認されない為、飽間氏はこの時点で没落していると考えられる。その後後北条氏に同調した武田氏の西上野侵攻が開始されると箕輪長野氏と共に武田氏に対抗する。重繁は長野業正の姉妹を妻に娶り、嫡男・景繁は業正の娘を娶り、また別の業正の娘を重繫の養女として長野氏家臣・石井信房に嫁がせている。このように重繫は箕輪長野氏と重縁関係にあり、業正やその跡を継いだ氏業と共に武田氏に対抗していく。 永禄4年(1561年)8月までに同郡で武田氏に通じた松井田城の諏訪氏を追い、以後松井田城に在城する。これを機に諏訪氏は国衆として没落していく。同年11月に武田氏による西上野侵攻が行われ、甘楽郡が制圧され、松井田城も攻撃されるが撃退する。翌5年(1562年)2月と5月にも攻撃を受け、9月には武田氏に降伏し、松井田城を没収される。この際に家督を嫡男・景繁に譲り隠居したと考えられる。なお、『甲陽軍鑑』(品第卅三)に越前守(重繁)が「成敗」されたとあるが、降伏した時に切腹・処刑された訳ではなく、重繁が松井田城を没収されて隠居・出家に追い込まれたことを「成敗」と称されたとみられる。
※この「武田氏との抗争」の解説は、「安中重繁」の解説の一部です。
「武田氏との抗争」を含む「安中重繁」の記事については、「安中重繁」の概要を参照ください。
- 武田氏との抗争のページへのリンク