戦国大名としての躍進と没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
「信濃村上氏」の記事における「戦国大名としての躍進と没落」の解説
村上政清、村上政国父子は近隣の有力国人海野氏幸を討ち、小県郡から佐久郡へと勢力を拡大していった。政国の子である村上顕国の事跡は詳しく分かっていないが、佐久郡の有力豪族大井氏を服属させ、大井氏の後ろ盾として甲斐国から佐久郡に侵攻を始めた武田氏との抗争、北部では高梨氏を圧迫し勢力を広げていったとされる。明応4年(1495年)には高梨政盛と善光寺を巡って争いこれを焼失させ、この時高梨氏は本尊を本拠地に持ち帰ったとされている。また1505年配下の小川氏が背いたため香坂氏や大日方氏に命じて攻略させている。一説には政国は「頼清」と顕国から「頼平」(頼衡)とも名乗ったとされ、政国(頼清)、顕国(頼平)の時代の信濃村上氏が源氏の名門として再興するだけの実力を備えていたことを推測させる(ただしこの時期の村上氏の系図が混乱していることは前述した通りである)[要出典]。その子村上義清の時代に佐久郡を武田信虎に奪われるが、武田氏・諏訪氏と手を組んだ海野平の戦いで海野氏や真田氏ら小県郡に残っていた滋野氏一党を駆逐することに成功した。また、甲斐国の武田信玄との抗争に際しては、それまで敵対していた高梨氏と手を結んで2度まで撃退した。しかし配下の屋代氏などの離反で敗れ、北信濃を追われることになる。その後の義清は越後国の上杉謙信の客将となって失地回復を図ったが成功することはなかった。
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