戦国大名と家臣団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:21 UTC 版)
戦国時代以降も、主従関係において利害の共有が重要であることに違いはなかった。むしろ、下剋上やより利害を違えた場合、鞍替えすることが当然視されるに及んでより顕著となったといってよい。但し、室町時代以前の守護大名や守護代、国人領主と戦国大名の大きな違いは強固な家臣団を形成し得たかどうかにある。 大名の家臣団にとって、中世以前と大きく異なるのが、有能な家臣の登用である。一門や庶家、縁戚、或いは有力国人や土豪を系譜に持つ有力家臣が大名家の内政を左右することは珍しくないが、尾張国の戦国大名織田信長が、農民の子から足軽になった羽柴秀吉(豊臣秀吉)を家臣に登用したように、実力次第では出世が可能になるのも、戦国大名の家臣団において見られたひとつの傾向であった。一方で血縁と伝統的な主従関係の下に成立した譜代の家臣と実力を買われ登用された新参の軋轢も生まれることもあった。 また、戦国時代も後期に至ると、それまでの半独立的な地位と状況によっては命令を拒むことができた被官層を完全に従属させ家臣とし、有力な大名は城下町を形成して屋敷を与え、家臣または家臣とその妻子を住まわせることで背信を防いだり、次第に武士の土着化を防ぐようになっていった。豊臣秀吉が関白となって以降は兵農分離が進み、平時は知行地で農業にも携わった家臣を完全なる文吏または武人として専業化させるに至り、大名と家臣の関係も必要に応じ登城し務めを果たす関係から常に登城し務めを果たす専従の関係へと発展していった。
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