武田氏に信濃先方衆として仕える
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「大井高政」の記事における「武田氏に信濃先方衆として仕える」の解説
武田氏配下となった大井高政は、永禄5年(1562年)10月10日に45人の軍役を定められており、このうち長柄槍五本を在府を理由に免除されている。しかし、19日と同7年(1564年)に再び軍役を定め直されており、何度も武田氏と折衝した形跡がある。武田氏が第四次川中島の戦い後に西上野侵攻を開始すると、高政は小諸城の守備と上野への兵糧輸送を命じられる。永禄9年(1566年)に武田軍が箕輪城を攻略すると箕輪城城番を命じられるが、この際高政は本領である小諸領を進上する代わりに箕輪周辺に替地をいただきたいと転封を自発的に申請した。この背景としては後方からの兵糧輸送や遠国への城番が小諸大井氏に大きな負担であったこと、前年より佐久郡を不作が襲い財政難に苦しんでいたことなどがある。高政の転封申請は受理され、箕輪への転封処理が完了するまで軍役は16人とされ、。 完了後は40人とされた。 接収された小諸城には城代として下曾根浄喜が赴任し、小諸領は城代領として武田氏直轄領となった。
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