武田氏による甲斐統一と穴山氏とは? わかりやすく解説

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武田氏による甲斐統一と穴山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)

穴山氏」の記事における「武田氏による甲斐統一と穴山氏」の解説

戦国時代には武田氏において守護武田信昌の子である信縄・油川信恵間で内訌発生する穴山氏当主穴山信懸の頃には駿河国今川氏帰属していたと考えられている。明応7年1498年)に信縄・信恵間には和睦成立するが、永正4年1507年2月14日に信縄が死去すると信縄の子・信直(後に「信虎」と改名、以下「信虎」で統一)が家督継承し信虎と信恵間の抗争開始される信虎永正5年1508年)に信恵一派を滅ぼし武田宗家の統一達成するその後信虎甲斐国衆との抗争が起こる。穴山氏家中においても武田氏への従属巡り内訌発生していたと考えられており、『勝山記によれば永正10年1513年5月27日には当主である穴山信懸子息清五郎により殺害される事件発生する。信懸は信虎本拠である川田館(甲府市川田町)の近在居住していることから、駿河今川氏親相模国伊勢宗瑞北条早雲)と関係を持ちつつ、信虎とも友好的関係を築いた両属的立場であった考えられている。 信懸の死後当主となった信風(信綱)は今川氏接近し河内領に接す西郡大井信達・信業とともに今川方に帰属した。永正18年/大永元年1521年2月27日には今川方の福島正成駿州往還河内路)を甲斐へ侵攻する福島乱入事件発生する福島勢は同年8月武田勢抗戦しているが、空白期間があることから、この間信風今川方に帰属していたと考えられている。 これに対して信虎同年8月下旬河内出兵し、駿河にいた信風の子信友と見られる武田八郎」の甲斐帰国許している。これにより、穴山氏武田方に降伏していたと考えられている。福島勢は大井氏の城である富田城南アルプス市戸田)から甲府侵攻するが、武田方は同年10月16日飯田河原の戦い甲府市飯田町)・11月23日上条河原戦い甲斐市島上条一帯)で福島勢を撃破し甲斐から駆逐した享禄4年1531年)には信虎敵対した栗原兵庫今井信元飯富虎昌国衆甲府退去し信虎抵抗し信濃諏訪郡諏訪頼満大井信業らの支援得た国衆勢は4月12日河原合戦韮崎市)において敗退し信虎臣従する。信風動向不明であるが、没年同年であるため、反国衆勢に加わっていた可能性考えられている。 信友当主となった頃も武田今川間では抗争続いたが、信虎時代には天文5年3月10日今川氏当主今川氏輝とその弟・彦五郎死去することにより家督を巡る花倉の乱発生し信虎は氏輝の弟である善徳寺承芳今川義元)を支援する今川義元当主となると武田今川間の甲駿同盟成立する。 こうして信虎による甲斐国内が統一されると、信友武田宗家従属する信友信虎の娘・南松院殿を正室迎えて武田宗家との関係を強化し居館駿河に近い南部南部町南部)から下山身延町下山)に移転し下山館を中心とした城下町整備した

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