武田氏による甲斐統一と穴山氏
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「穴山氏」の記事における「武田氏による甲斐統一と穴山氏」の解説
戦国時代には武田氏において守護・武田信昌の子である信縄・油川信恵間で内訌が発生する。穴山氏の当主・穴山信懸の頃には駿河国の今川氏に帰属していたと考えられている。明応7年(1498年)に信縄・信恵間には和睦が成立するが、永正4年(1507年)2月14日に信縄が死去すると信縄の子・信直(後に「信虎」と改名、以下「信虎」で統一)が家督を継承し、信虎と信恵間の抗争が開始される。信虎は永正5年(1508年)に信恵一派を滅ぼし、武田宗家の統一を達成する。 その後、信虎と甲斐国衆との抗争が起こる。穴山氏の家中においても武田氏への従属を巡り内訌が発生していたと考えられており、『勝山記』によれば、永正10年(1513年)5月27日には当主である穴山信懸が子息の清五郎により殺害される事件が発生する。信懸は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)の近在に居住していることから、駿河の今川氏親や相模国の伊勢宗瑞(北条早雲)と関係を持ちつつ、信虎とも友好的関係を築いた両属的立場であったと考えられている。 信懸の死後、当主となった信風(信綱)は今川氏に接近し、河内領に接する西郡の大井信達・信業とともに今川方に帰属した。永正18年/大永元年(1521年)2月27日には今川方の福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻する福島乱入事件が発生する。福島勢は同年8月に武田勢と抗戦しているが、空白期間があることから、この間に信風は今川方に帰属していたと考えられている。 これに対して、信虎は同年8月下旬に河内へ出兵し、駿河にいた信風の子・信友と見られる「武田八郎」の甲斐帰国を許している。これにより、穴山氏は武田方に降伏していたと考えられている。福島勢は大井氏の城である富田城(南アルプス市戸田)から甲府へ侵攻するが、武田方は同年10月16日に飯田河原の戦い(甲府市飯田町)・11月23日に上条河原の戦い(甲斐市島上条一帯)で福島勢を撃破し、甲斐から駆逐した。 享禄4年(1531年)には信虎と敵対した栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌ら国衆が甲府を退去して信虎に抵抗し、信濃諏訪郡の諏訪頼満や大井信業らの支援を得た。国衆勢は4月12日に河原辺合戦(韮崎市)において敗退し、信虎に臣従する。信風の動向は不明であるが、没年が同年であるため、反国衆勢に加わっていた可能性が考えられている。 信友が当主となった頃も武田・今川間では抗争が続いたが、信虎の時代には天文5年3月10日に今川氏で当主の今川氏輝とその弟・彦五郎が死去することにより家督を巡る花倉の乱が発生し、信虎は氏輝の弟である善徳寺承芳(今川義元)を支援する。今川義元が当主となると武田・今川間の甲駿同盟が成立する。 こうして信虎による甲斐国内が統一されると、信友は武田宗家に従属する。信友は信虎の娘・南松院殿を正室に迎えて武田宗家との関係を強化し、居館を駿河に近い南部(南部町南部)から下山(身延町下山)に移転し、下山館を中心とした城下町を整備した。
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