武田氏への従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:09 UTC 版)
永禄4年(1561年)末より武田信玄による西上野侵攻が行われると、大戸浦野氏の惣領とみられる浦野中務少輔(後の浦野真楽斎)は遅くとも翌5年(1562年)5月までに同郡の国衆・鎌原重澄を通じて武田氏に従属した。同月に中務少輔は長野氏領である権田・室田に攻め入り、長野三河入道を討ち取り、武田氏への忠勤を示した。真楽斎は同10年(1567年)に武田信玄より「三島・山県・権田・三蔵・水沼・岩氷」を所領宛行され、本領である大戸地区の他に旧長野氏領であった榛名山南麓の烏川流域も支配下に組み込んだ。 武田氏配下の大戸浦野氏は『甲陽軍鑑』によると10騎を率いており、これは上野先方衆の中では一番少ない動員数である。大戸浦野氏の領主的規模はそれほど大きいものではなかったが、本拠となる大戸城が岩櫃城と並ぶ吾妻郡の重要拠点であったため、武田氏から拠点防衛のための軍勢が派遣されるなど重要視された。武田氏への取次ははじめは甘利昌忠、後に内藤昌秀・真田昌幸が務めた。 その後も大戸浦野氏の一族は武田氏の箕輪城攻撃をはじめとする各地の合戦に参加し、同12年(1569年)の後北条氏との三増峠の戦いで真楽斎の弟・民部右衛門尉が討ち死にした。浦野真楽斎・弾正忠父子も東海地方を転戦し、弾正忠は天正9年(1581年)の高天神城攻防戦で戦死した。
※この「武田氏への従属」の解説は、「大戸浦野氏」の解説の一部です。
「武田氏への従属」を含む「大戸浦野氏」の記事については、「大戸浦野氏」の概要を参照ください。
- 武田氏への従属のページへのリンク