武田氏の滅亡と穴山氏とは? わかりやすく解説

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武田氏の滅亡と穴山氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)

穴山氏」の記事における「武田氏の滅亡と穴山氏」の解説

天正10年1582年3月には織田信長徳川家康連合軍武田侵攻甲州征伐)を前に穴山信君家康通じて織田方へ内通し甲斐河内領・江尻安堵武田宗家相続確約得た織田徳川勢侵攻に対して勝頼は新府城放棄して小山田信茂郡内領へ向かう途中3月11日田野において滅亡した信君3月4日家康対面する徳川勢江尻城入城させ、3月8日には徳川勢信君案内役甲斐へ侵攻する。信君甲府甲斐善光寺において信長嫡男織田信忠対面すると、3月20日には信濃国諏訪到着した信長出仕し甲斐河内領を安堵される。信長甲斐において戦後処理を終えて帰国すると、信君家康とともに返礼上方訪れていたが、6月2日には信長家臣明智光秀によって討たれる本能寺の変発生する信君家康とともに京都・奈良見物していたが、信長横死を知ると上方脱出し家康別れた信君宇治田原において一揆襲撃受けて落命した。 本能寺の変信君死により甲斐信濃武田遺領無主態となり、越後上杉氏相模後北条氏三河徳川氏の間で遺領を巡る天正壬午の乱発生する甲斐には後北条氏侵攻し河内領には信君嫡男勝千代がおり、家康6月5日三河岡崎城帰還すると、直ち武田遺臣岡部正綱河内領の保全命じている。勝千代家康庇護下で幼年当主として河内領・江尻支配認められる武田氏滅亡直後穴山氏織田氏従属国衆として徳川氏与力する位置づけであったが、本能寺の変信君死によって徳川氏従属国衆へと位置づけ変えることになった天正壬午の乱では家康7月9日甲府着陣すると、本陣新府城移して甲斐北西部七里岩布陣して後北条勢と対峙した。10月29日には徳川北条同盟成立し後北条勢は甲斐から撤兵し、天正壬午の乱集結した一方信長死後織田政権では、天正壬午の乱最中である天正10年6月13日山崎の戦いにおいて明智光秀織田家家臣羽柴秀吉豊臣秀吉)により討たれる6月27日には織田家後継者を巡る清洲会議において、秀吉により擁立された織田信忠嫡男三法師織田秀信)が後継者定められた。その後秀吉天正11年1583年4月賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家破り台頭すると、家康信長次男織田信雄と結び秀吉敵対した家康天正12年1584年3月小牧・長久手の戦いにおいて秀吉勢と戦っているが、穴山衆はこのときにも徳川方として従軍している。同年11月11日には秀吉との和睦成立するまた、天正13年1584年8月に、家康信濃において自立した武田遺臣真田昌幸攻めるが、この時に大久保忠世付属され穴山衆が従軍している。同年8月から12月には信濃上田城を巡る第一次上田合戦において徳川方敗退し撤退する

※この「武田氏の滅亡と穴山氏」の解説は、「穴山氏」の解説の一部です。
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