武田氏の滅亡と穴山氏
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天正10年(1582年)3月には織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)を前に、穴山信君は家康を通じて織田方へ内通し、甲斐河内領・江尻領安堵と武田宗家相続の確約を得た。織田・徳川勢の侵攻に対して勝頼は新府城を放棄して小山田信茂の郡内領へ向かう途中、3月11日に田野において滅亡した。信君は3月4日に家康と対面すると徳川勢を江尻城へ入城させ、3月8日には徳川勢は信君を案内役に甲斐へ侵攻する。信君は甲府の甲斐善光寺において信長嫡男・織田信忠と対面すると、3月20日には信濃国諏訪へ到着した信長に出仕し、甲斐河内領を安堵される。信長が甲斐において戦後処理を終えて帰国すると、信君も家康とともに返礼に上方を訪れていたが、6月2日には信長が家臣・明智光秀によって討たれる本能寺の変が発生する。信君は家康とともに京都・奈良を見物していたが、信長の横死を知ると上方を脱出し、家康と別れた信君は宇治田原において一揆の襲撃を受けて落命した。 本能寺の変・信君の死により甲斐・信濃の武田遺領は無主状態となり、越後上杉氏や相模後北条氏、三河徳川氏の間で遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。甲斐には後北条氏が侵攻し、河内領には信君の嫡男・勝千代がおり、家康は6月5日に三河岡崎城に帰還すると、直ちに武田遺臣の岡部正綱に河内領の保全を命じている。勝千代は家康の庇護下で幼年当主として河内領・江尻領支配を認められる。武田氏滅亡直後の穴山氏は織田氏従属の国衆として徳川氏に与力する位置づけであったが、本能寺の変と信君の死によって徳川氏従属の国衆へと位置づけを変えることになった。 天正壬午の乱では家康は7月9日に甲府へ着陣すると、本陣を新府城へ移して甲斐北西部の七里岩に布陣して後北条勢と対峙した。10月29日には徳川・北条同盟が成立し、後北条勢は甲斐から撤兵し、天正壬午の乱は集結した。 一方、信長死後の織田政権では、天正壬午の乱の最中である天正10年6月13日の山崎の戦いにおいて明智光秀が織田家家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)により討たれる。6月27日には織田家の後継者を巡る清洲会議において、秀吉により擁立された織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)が後継者に定められた。その後、秀吉は天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家を破り台頭すると、家康は信長の次男・織田信雄と結び秀吉と敵対した。 家康は天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いにおいて秀吉勢と戦っているが、穴山衆はこのときにも徳川方として従軍している。同年11月11日には秀吉との和睦が成立する。また、翌天正13年(1584年)8月に、家康は信濃において自立した武田遺臣真田昌幸を攻めるが、この時にも大久保忠世に付属された穴山衆が従軍している。同年閏8月から12月には信濃上田城を巡る第一次上田合戦において徳川方は敗退し、撤退する。
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