武田氏の滅亡から横死
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天正8年(1580年)、出家し、梅雪斎(ばいせつさい)と号した。 天正9年(1581年)12月、勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し始め、翌年2月、勝頼が娘を信君の嫡男に娶らせる約束を反故にして武田信豊の子に娶らせるとしたことに激怒して、家康に降ったという話が、飯田忠彦の『野史』に見られる。 天正10年(1582年)、織田信忠の甲斐侵攻に際しては、2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件に、2月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した(『家忠日記』、『信長公記』、『記録御用所本子文書』)。その結果、信君は織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられた。 同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)において信長に謁見する。堺(大阪府堺市)を遊覧した翌日の6月2日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死(本能寺の変)を知り、家康と共に畿内を脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて亡くなった。『家忠日記』では自害、『信長公記』では、一揆により生害されたと伝え殺害と自害の両方の意味がある。 一方、『フロイス日本史』では、信君は家康一行から遅れて移動していたところを落ち武者狩りの執拗な襲撃に遭い殺害されたとする。『東照宮御実紀』では、信君が家康を疑い別行動を取ったところを、光秀から家康追討の命を受けた一揆勢によって家康と誤認されて、家臣の帯金美作守らと共に宇治田原で殺害されたとする。このように、自害ではなく落ち武者狩りや一揆によって殺害されたとする資料も見受けられる。一方、別行動を取ったとされる家康はかろうじて三河国に帰国した(伊賀越え)。 『甲陽随筆』では墓所は草池(内)村木津川ノ西南段ノ岡と記されている。法諱は霊泉寺殿古道集公大居士。
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