武田氏の滅亡と武川衆
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天正10年(1582年)3月に武田氏は滅亡し、同年6月の本能寺の変により発生した「天正壬午の乱」を経て、甲斐は三河国の徳川家康が領する。武川衆は武田遺臣を庇護する家康に仕えた。『寛永諸家系図伝』所収文書によれば、天正10年7月15日には折井市左衛門尉・米倉主計助(米倉忠継)(忠継・丹後守の子息)の両名が家康から感状を受けている。『寛永伝』によれば、これは両名が「天正壬午の乱」において武川衆を家康方に味方させるべく奔走した功績であるという。引き続き国境防衛を務め、天正壬午の乱においても活躍したという。 天正10年10月29日には徳川・北条同盟が成立し、徳川・北条間では和睦の条件として、徳川氏は真田昌幸が領する上野・沼田両郡を後北条氏に引き渡すことが定められた。徳川家康は昌幸に対して両郡の引き渡しを求めるが昌幸はこれを拒否し、昌幸は越後国の上杉景勝に帰属し、天正13年(1585年)閏8月2日には上田城において徳川氏と真田氏の間で第一次上田合戦が行われる。『寛永伝』によれば、武川衆では米倉忠継が徳川方に従い戦っている。 織田信長没後の織田政権において宿老・羽柴秀吉(豊臣秀吉)と織田信雄・徳川家康は敵対しており、その最中に同年11月13日に三河では徳川家臣・石川数正が出奔する事件が発生する。数正の出奔により甲斐・信濃の国衆の間では動揺が起こり、武川衆も家康に対して人質を提出している。天正14年(1586年)正月3日に米倉忠継は武川衆を代表して駿府に人質を差し出したという。天正18年(1590年)の小田原合戦後の徳川家康の関東移封にも随行している
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