武田氏の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 16:48 UTC 版)
毛利元就の台頭と対照的に、安芸武田氏の衰退は深刻化していた。天文2年(1533年)の横川表の戦いを経て熊谷信直が武田方から離反し、天文9年(1540年)6月2日に光和が病没する。若狭武田氏から養子に迎えた武田信実が安芸武田氏を引き継ぐものの、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できなかった。ついに品川左京亮(安芸品川氏)が香川光景の居城八木城を攻撃するが、毛利方になっていた熊谷勢などの援軍を得た香川軍に、品川軍は撃退されてしまう。この事態により、佐東銀山城から退去する家臣が続出したため、信実は城を捨てて出雲(さらには若狭)への逃亡を余儀なくされた。
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