武田氏の配下時代
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天文22年(1553年)には真田幸綱(幸隆)らによるとされる調略に応じて近隣の塩崎氏らと共に村上氏から離反し、武田氏に臣従。これによって村上義清は北信濃と切り離されて孤立し高梨氏を通じ、その縁続きに当たる越後の長尾氏(上杉氏)を頼って最終的に落ち延びることとなった。 以後の屋代氏はおよそ30年間にわたり信濃先方衆として活躍し、その軍役は70騎と伝えられ、永禄2年(1559年)に屋代城から荒砥城に移る。天正3年(1575年)21日の長篠の戦いでは政国の次男屋代正長(清綱)が討ち死にし、翌天正4年(1576年)に政国の実弟室賀満政の四男秀正(勝永・忠照)を養子に迎えている(政国には、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで討死したとする説もあり、その場合は正長が家督を継いでいたことになる)。 長野県上田市の生島足島神社には武田家臣が提出した起請文が伝来しており、領地を接し互いに元は村上氏の配下であった麻績氏の2通は前日提出の内容はありきたりだが翌日再提出の文面には国侍同士で昵懇にしないこと特に隣接の屋代氏やその支族室賀氏、大日方氏とは私信を交わさないことを誓っている。
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