武田氏の家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:50 UTC 版)
武田氏従属後は武田氏の駿河侵攻に貢献し、元亀元年(1570年)正月の駿河花沢城攻めに参戦した。その後の同3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いや翌元亀4年2月の岩村城の戦いにも馬場信春の先陣に属して参戦し、活躍した。天正2年(1574年)の武田勝頼により高天神城攻めにも参陣し、弟・治部右衛門が戦死している。 武田氏傘下の正綱の知行は定納高968貫文余であり、それに対して70人の軍役負担が求められた。また正綱は水軍も有して武田水軍の一翼も担っており、同4年(1576年)8月23日付で武田氏より正綱が所有する清水湊の船14艘の役銭を免除されている。 天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し(高天神城の戦い)、一門で同城城代の岡部元信らが討ち死にした。武田氏の退潮が著しい中で翌年(1582年)2月の織田・徳川軍による武田攻めが開始される(甲州征伐)と、穴山信君と共に徳川家康に内通した。3月に武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となった。
※この「武田氏の家臣時代」の解説は、「岡部正綱」の解説の一部です。
「武田氏の家臣時代」を含む「岡部正綱」の記事については、「岡部正綱」の概要を参照ください。
- 武田氏の家臣時代のページへのリンク