武田氏に従属、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:30 UTC 版)
元亀3年(1572年)10月に武田信玄による徳川領国への大規模侵攻が行われる(西上作戦)と、藤秀は武田氏に従属し嫡男・小四郎景康を甲府に人質として差し出した。その後は武田氏傘下の先方衆として徳川軍と戦い、天正2年(1574年)4月に犬居谷を徳川家康に攻められたが悪天候なども影響して良く防いだ。その後、退却する家康の軍勢を奇襲し総崩れにさせた。 同3年(1575年)6月の長篠の戦いの際、藤秀は犬居谷の守備を命じられ領国に残留していた。戦後、徳川軍の反攻活動が遠江の各戦線にて展開され、犬居谷も武田方の二俣城の補給経路を断つために徳川軍の侵攻を受けた。藤秀は朝比奈泰方と共に光明城を守備していたが7月上旬までに攻略され、犬居谷の樽山城・勝坂城も攻略されたことから犬居谷の大半が徳川方に制圧された。しかし藤秀は犬居谷の北方の拠点・鹿鼻城に在城して犬居谷の奪還を図り、武田勝頼も藤秀ら北遠方面の戦線を維持すべく、下伊那の松島・大草衆を奥山郷に派遣した。 その後も藤秀は犬居谷の奪還を模索し、翌年(1576年)12月に徳川軍に少なからず打撃を与え、同7年(1579年)4月にも勝頼から光明城の攻略を命じられている。その一方で犬居谷を追われて所領を失った藤秀には武田領国内で替地を宛がわれた。 同10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると武蔵八王子城主・北条氏照を頼り、以後その配下となった。翌年(1583年)3月には下野国小山城の在番を命じられ、嫡男・景康が対佐竹氏との戦いなどで活躍した。 没年は不詳であるが、資料上で最後に確認できるのは天正12年(1584年)4月である(天野文書)。
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