武田氏との戦いとは? わかりやすく解説

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武田氏との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「武田氏との戦い」の解説

家康北条氏協調して武田領を攻撃していたが、武田氏元亀2年1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保する信長反目し将軍足利義昭武田信玄朝倉義景浅井長政石山本願寺反織田勢力糾合して信長包囲網企てた際、家康にも副将軍への就任要請し協力求めた。しかし家康はこれを黙殺し信長との同盟関係維持した元亀3年1572年10月には武田氏徳川領である遠江国三河国への侵攻西上作戦)を開始した。これにより武田氏織田氏手切となった家康信長援軍要請するが、信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍美濃国岩村城攻撃されたことから十分な援軍送られず、徳川軍はほぼ単独という形で武田軍と戦うこととなる。 徳川軍遠江国侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川渡って見附磐田市)にまで進出浜松北方固め要衝二俣城取られることを避けたい徳川軍が、武田軍動向を探るために威力偵察出たところを武田軍遭遇し一言坂で敗走する一言坂の戦い)。遠江方面武田軍本隊同時に武田軍別働隊侵攻する三河方面への防備充分に固められないばかりか、この戦い機に徳川軍劣勢確定してしまう。そして12月二俣城落城した(二俣城の戦い)。 ようやく信長から佐久間信盛平手汎秀率い援軍送られてきたころ、別働隊合流した武田軍本隊浜松城近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍浜松城悠然と素通りして三河国侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城唱えるのに反して武田軍追撃。しかしその結果鳥居忠広成瀬正義や、二俣城の戦い開城恥辱ごうとした中根正照青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者出し平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川織田連合軍惨敗した家康夏目吉信代表されるように、身代わりとなった家臣助けられ命からがら浜松城逃げ帰ったという。武田勢浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康冷静さ取り戻し空城計」を用いることによって武田軍それ以上追撃断念させたとされている。(三方ヶ原の戦い浜名湖北岸越年した後、三河国への進軍再開した武田軍によって三河国設楽郡野田城2月には落とされ城主菅沼定盈拘束された。ところがその後武田軍信玄発病によって長篠城まで退き信玄死去により撤兵した。 武田軍の突然の撤退は、家康信玄死去疑念を抱かせた。その生死確認するため家康武田領である駿河国岡部侵攻放火し三河国では長篠城攻めるなどしている。そして、これら一連の行動武田軍抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏与していた奥三河豪族山家三方衆一角である奥平貞能・貞昌親子調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍配し武田軍の再侵攻備えさせた。 武田氏西上作戦頓挫により信長反織田勢力撃滅し、家康勢力回復して長篠城から奥三河奪還し駿河国武田領まで脅かした。これに対して信玄後継者である武田勝頼攻勢出て天正2年1574年)には東美濃明智城遠江高天神城攻略し家康武田氏攻防繰り返した同年家康犬居城を攻めるが、城主天野景貫奇襲により敗退する。同時期、武田内通していたとして、家臣大賀弥四郎らを捕え、鋸挽き処刑した信長家康への支援後手回ったが、天正3年1575年5月長篠の戦いでは主力持って武田氏戦い武田氏宿老層の主要家臣数多く失う大敗喫し駿河領国動揺外交方針転換余儀なくさせた。一方家康戦勝乗じて光明犬居二俣といった城を奪取攻略し殊に諏訪原城奪取したことで高天神城大井川沿いの補給路を封じ武田氏への優位築いた。 なお、家康長篠城主の奥平信昌(信昌の諱「信」は従来信長の「信」をこの時に拝領したものとされていたが、近年信玄従属した時に一字拝領受けた説もある)の戦功対す褒美として、名刀大般若長光授けて賞した。そのうえ、翌年には長女亀姫正室とさせている。だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長主君とする「一門準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前将軍足利義昭要請での軍事援助という形式だったが、以後信長臣下としての参軍となる 。 天正3年1575年)、家康唐人五官五官通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除認め朱印状発行しており、懸塚湊や上流馬込川中国商船来航し浜松城下にて貿易行っていたことが知られている。五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人その後家康に従って江戸移住したとみられている。 天正6年1578年)、越後上杉氏急死した上杉謙信後継者を争う御館の乱発生し武田勝頼北信濃出兵し乱に介入する謙信養子である上杉景勝謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し同じく養子の上景虎謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田北条間の甲相同盟破綻した。翌天正7年1579年9月北条氏家康同盟を結ぶ。この間家康横須賀城などを築き多数付城によって高天神城への締め付け強化した。 また同じころ、信長から正室築山殿嫡男松平信康に対して武田氏への内通疑惑かけられとされる家康酒井忠次使者として信長談判させたが、信長からの詰問忠次概ね認めたために信康切腹通達され家康熟慮の末、信長との同盟関係維持優先し築山殿殺害し信康切腹させたという。だが、この通説には疑問点多く近年では築山殿殺害信康切腹は、家康信康父子の対立原因とする説も出されている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。 岩村城の戦い以降織田氏武田氏大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し天正9年1581年)、降伏開城封じた上で総攻撃によって家康高天神城奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏威信致命的に失墜させ、国人衆大きく動揺した木曾義昌調略成功きっかけに、天正10年1582年2月信長家康共同武田領へ本格的侵攻開始した織田軍の信濃方面からの侵攻呼応して徳川軍駿河方面から侵攻し甲斐南部河内領・駿河江尻領主穴山信君)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行同年3月自害し武田氏滅亡した最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃依田信蕃)が守る田中城成瀬正一らの説得により大久保忠世引き渡された。 家康3月10日信君とともに甲府着陣しており、信長甲斐仕置を行うと中道往還通過して帰還している(甲州征伐)。 家康はこの戦功により駿河国与えられ駿府において信長接待している。家康はこの接待のために莫大な私財投じて街道整備し宿館を造営した信長はこの接待ことのほか喜んだ。 また遅くともこのころには、三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、徳川家正式に帰参している(正式な帰参時期不明で、姉川の戦いのころに既に帰参していたとも)。

※この「武田氏との戦い」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「武田氏との戦い」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

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