武田氏への臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 17:42 UTC 版)
長利の嫡男は直政だが男児がなく弟の直忠が惣領を継承した。この大日方直忠の時代に、甲斐国の武田晴信(信玄)による北信濃侵攻が始まった。武田軍は仁科方面から山県昌景が侵入して小川・古山城への入口に位置する千見城(長野県大町市美麻千見)を落とし、守将の大日方長辰(直長とも)は敗死した。 これを機に大日方氏は、武田氏への恭順派と、抗戦派に二分した。直忠には五人の子がおり、長男の直経は徹底抗戦を唱えたが、残る四人の弟(直武、直長、直龍、直親)は恭順派だった。弟たちは謀議によって文道古城(現在の長野県長野市鬼無里)城主の直経を襲撃し、直経は重傷を負って裾花川(金吾淵と伝えられる)に身を投じて自害した。これによって天文21年(1552年)大日方氏は武田氏への恭順が認められ信濃先方衆となった。 その後、大日方氏は武田氏に従い越後上杉氏との川中島の戦いにも参戦しており、川中島平の中央部とも言える広田地区にも所領を与えられて居館を構えた。直長は、上杉氏によって陥落した千見城を奪還し、武田信玄から感状を受けている。また天文23年(1554年)には安曇郡の中塔城で信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。永禄元年(1558年)には中条地区の支配権も与えられた。 多数の武田信玄配下と共に麻績氏が生島足島神社へ2通の起請文を提出しており、前日提出文はありきたりの内容だが、翌日再提出の内容は「国侍同士で昵懇にしない、中でも互いに元村上氏の配下であって麻績氏とは支配地が隣接する屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしない」と誓わされている。 直長が出陣した永禄4年(1561年)の第4回川中島の戦いの頃の軍役は110騎と伝えられ、大日方一族全てを合わせると300騎を超えたとも言われており周辺の屋代氏の70騎や麻績氏の10騎、室賀氏の20騎、栗田氏の60騎等に比して突出した規模であり、その動員兵力は9000人~10000人前後にも及ぶものと推定される。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも直家を中心に出陣している。 また、上杉謙信の戸隠攻めに際して戸隠から逃れてきた僧侶を受け入れたため、本拠の小川は後世まで「坊」と称された。
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