武田氏家臣の土屋氏と遺臣とは? わかりやすく解説

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武田氏家臣の土屋氏と遺臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:02 UTC 版)

土屋氏」の記事における「武田氏家臣の土屋氏と遺臣」の解説

戦国時代甲斐土屋氏甲府盆地西部西郡本領とし、南アルプス市徳永居館所在していたと言われる金丸氏同族金丸氏居館跡には土塁一部現存している。戦国時代後期には武田家臣・金丸筑前守(虎義)の次男昌続(昌次、右衛門尉)が当主武田晴信信玄)の近習として仕える。昌続は土屋氏名跡継承し原昌胤らと信玄・勝頼期の側近奉行人として仕えたまた、武田氏海賊衆土屋貞綱は元は岡部であった土屋姓の名乗り許され、昌続実弟である昌恒を養子としている。昌続・貞綱は天正3年1575年)の長篠の戦いにおいて戦死し、昌恒は兄昌続・養父貞綱双方家臣継承している。昌恒は天正10年1582年3月11日に、織田徳川連合軍甲斐侵攻に際して勝頼に従い戦死している。 『寛政重修諸家譜によれば、まだ幼少であった昌恒の子忠直は母とともに脱出したという。天正10年1582年6月本能寺の変後天正壬午の乱経て甲斐国徳川家康領した武田遺臣家康提出した天正壬午起請文では土屋氏同心70名が井伊直政付属していることが確認される。『寛永諸家系図伝』『寛政譜によれば土屋忠直家康側室である阿茶局により養育され慶長7年1602年)に上総国久留里藩主となる。宗家である久留里藩主家改易されて旗本になる(『忠臣蔵』において吉良義央邸の隣人として登場する旗本土屋主税」は同家土屋逵直のことである)が、分家土浦藩主家老中土屋政直輩出するなど大名家格式守って明治維新に至る。 維新後最期土浦藩土屋挙直1869年明治2年)の版籍奉還知藩事転じ1871年明治4年)の廃藩置県まで務めた1884年明治17年)に華族令施行と共に子爵家に列する土屋直子爵は東宮御学問所御用掛東宮侍従などを歴任した後、三ツ銀行頭取務めた。その息子土屋尹直子爵三井物産経て三ツ銀行頭取務めその後式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官貴族院議員歴任した土屋子爵家の邸宅東京市中野区本町通にあった

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