武田氏家臣の土屋氏と遺臣
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戦国時代の甲斐土屋氏は甲府盆地西部の西郡を本領とし、南アルプス市徳永に居館が所在していたと言われる。金丸氏と同族。金丸氏居館跡には土塁の一部が現存している。戦国時代後期には武田家臣・金丸筑前守(虎義)の次男昌続(昌次、右衛門尉)が当主武田晴信(信玄)の近習として仕える。昌続は土屋氏の名跡を継承し、原昌胤らと信玄・勝頼期の側近・奉行人として仕えた。 また、武田氏海賊衆の土屋貞綱は元は岡部姓であったが土屋姓の名乗りを許され、昌続実弟である昌恒を養子としている。昌続・貞綱は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦死し、昌恒は兄昌続・養父貞綱双方の家臣を継承している。昌恒は天正10年(1582年)3月11日に、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して勝頼に従い戦死している。 『寛政重修諸家譜』によれば、まだ幼少であった昌恒の子・忠直は母とともに脱出したという。天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に天正壬午の乱を経て甲斐国は徳川家康が領した。武田遺臣が家康に提出した天正壬午起請文では土屋氏の同心70名が井伊直政に付属していることが確認される。『寛永諸家系図伝』『寛政譜』によれば土屋忠直は家康の側室である阿茶局により養育され、慶長7年(1602年)に上総国久留里藩主となる。宗家である久留里藩主家は改易されて旗本になる(『忠臣蔵』において吉良義央邸の隣人として登場する旗本「土屋主税」は同家の土屋逵直のことである)が、分家の土浦藩主家は老中土屋政直を輩出するなど大名家の格式を守って明治維新に至る。 維新後、最期の土浦藩主土屋挙直は1869年(明治2年)の版籍奉還で知藩事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた。1884年(明治17年)に華族令施行と共に子爵家に列する。土屋正直子爵は東宮御学問所御用掛、東宮侍従などを歴任した後、三ツ輪銀行頭取を務めた。その息子土屋尹直子爵も三井物産を経て三ツ輪銀行頭取を務め、その後式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官、貴族院議員を歴任した。土屋子爵家の邸宅は東京市中野区本町通にあった。
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