武田氏滅亡、天正壬午の乱
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「保科正直」の記事における「武田氏滅亡、天正壬午の乱」の解説
天正10年(1582年)2月に開始された織田・徳川連合軍の甲州征伐に際しては飯田城を守備していたが、2月14日には織田信忠による攻勢を受けて坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが小笠原信嶺を通じて降伏を申し入れてたものの、戦闘が開始されたために降伏が間に合わず城を退去した(『信長公記』『甲乱記』)。 その後、実弟内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れる。3月に武田勝頼が自害し武田氏が滅亡すると、弟・昌月と共に滝川一益に従った。6月に本能寺の変が勃発すると、伊勢に帰還しようとする一益に人質として嫡子・正光を差し出しているが、後に家臣の機転により無事帰還したという(『赤羽記』)。 滝川一益撤退後は昌月とともに後北条氏に帰属し、正室・跡部氏(跡部勝忠の娘)を人質として提出した。正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として伊那方面に進軍し、8月上旬から中旬にかけての間に高遠城を奪取した。その後昌月は甲斐に転進したが、正直は高遠城に残留した。 8月12日に甲斐における黒駒合戦において徳川家康が優勢に立つと、正直は依田信蕃、木曾義昌ら他の信濃国衆と共に徳川方に転じた。正直には10月24日付で徳川氏より伊那半郡を与える朱印状を与えられ、高遠城内に残留していた内藤勢を駆逐して徳川方に鞍替えした。これに激怒した北条氏直は正直の正室・跡部氏と処刑したという。11月には同郡で後北条方であった箕輪城主・藤沢頼親を自刃させてその孫・左門を放逐し、箕輪領を併合した。これにより正直は高遠城一帯の上伊那郡を制圧した。さらに11月から翌年1月にかけて未だ後北条方であった筑摩郡の小笠原貞慶を諏訪頼忠と共に攻め、徳川軍の鳥居元忠や井伊直政も加勢し2月10日までに貞慶を徳川方に帰属させた。
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