武田氏滅亡、天正壬午の乱とは? わかりやすく解説

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武田氏滅亡、天正壬午の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:01 UTC 版)

保科正直」の記事における「武田氏滅亡、天正壬午の乱」の解説

天正10年1582年2月開始され織田徳川連合軍甲州征伐に際して飯田城守備していたが、2月14日には織田信忠による攻勢受けて坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが小笠原信嶺通じて降伏申し入れてたものの、戦闘開始されたために降伏が間に合わず城を退去した(『信長公記』『甲乱記』)。 その後実弟内藤昌月頼って上野箕輪城逃れる3月武田勝頼自害し武田氏滅亡すると、弟・昌月と共に滝川一益従った6月本能寺の変勃発すると、伊勢帰還しようとする一益に人質として嫡子正光差し出しているが、後に家臣機転により無事帰還したという(『赤羽記』)。 滝川一益撤退後は昌月とともに後北条氏帰属し正室跡部氏跡部勝忠の娘)を人質として提出した。正直・昌月兄弟小諸城から甲斐向けて進軍する後北条軍の別働隊として伊那方面進軍し8月上旬から中旬にかけての間に高遠城奪取したその後昌月は甲斐転進したが、正直は高遠城残留した8月12日甲斐における黒駒合戦において徳川家康優勢に立つと、正直は依田信蕃木曾義昌ら他の信濃国と共に徳川方転じた正直に10月24日付で徳川氏より伊那半郡を与え朱印状与えられ高遠城内に残留していた内藤勢を駆逐し徳川方鞍替えした。これに激怒した北条氏直は正直の正室跡部氏処刑したという。11月には同郡で後北条であった箕輪城主・藤沢頼親自刃させてその孫・左門放逐し箕輪領を併合した。これにより正直は高遠城一帯の上伊那郡制圧した。さらに11月から翌年1月にかけて未だ後北条であった筑摩郡小笠原貞慶諏訪頼忠と共に攻め徳川軍鳥居元忠井伊直政加勢し2月10日までに貞慶徳川方帰属させた。

※この「武田氏滅亡、天正壬午の乱」の解説は、「保科正直」の解説の一部です。
「武田氏滅亡、天正壬午の乱」を含む「保科正直」の記事については、「保科正直」の概要を参照ください。

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