武田氏滅亡後の伊藤玄蕃とは? わかりやすく解説

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武田氏滅亡後の伊藤玄蕃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 05:27 UTC 版)

伊藤玄蕃」の記事における「武田氏滅亡後の伊藤玄蕃」の解説

(1)武田氏滅亡後の伊藤玄蕃(およびその子孫)については、次の3説が見出されている。 ①『韮崎市誌』下巻によれば、「伊藤窪」に留まり帰農した。「伊豆伊藤祐親 の後といわれる。・・・(中略)・・・玄蕃允祐次は信玄の時、二十人となった主家没落ののち徳川家仕えたが故あって辞し帰農して子孫村役人世襲した。」 ②飯田好太郎の説では、信濃潜居し、帰農した。「次ハ重時伊藤玄蕃ト云フ(伊藤玄蕃武田家廿人頭天正壬午ノ役新府ノ東、堂ヶ坂砦守衛番頭タリ武田家滅亡ノ後浪人シ當小坂ノ里ニ潜居帰農シテ」(注:長野県岡谷市に「小坂」(おさか)という地名がある)。 ③水戸藩重臣伊藤友玄いとうともはる)の子孫である伊藤家に残る『伊藤系図によれば、「二十人頭」であった伊藤玄蕃友祐は、武田勝頼最期となった天目山の戦い天正10年1582年3月)で討死にした。その子である清重(友玄の父)が越前至り、後に結城秀康仕えた水戸藩編年史書『水戸紀年』には、以下のように記載されている。 原文:「神君岡崎兵衛綱住伊藤玄蕃友玄(2名略)ヲシテ公ノ臣タラシム」「友玄ハ初越前ニ住シ中納言秀康卿ニ仕」「軒曰系纂ニモ伊藤氏ノコト如比見エタレトモ甲陽軍鑑信玄ノ廿人頭伊藤玄蕃アリ後越前ニ仕エシモノナランカ」現代語訳:「神君(徳川家康)は、岡崎綱住、伊藤友玄、他2名を威公徳川頼房)の家臣とした。友玄は、初め越前において結城秀康仕え た小宮山楓軒は、「水府系纂にも伊藤氏のことがこのように書かれているが、甲陽軍鑑信玄二十人頭に伊藤玄蕃名があるその後越前移って仕官したであろうか。」と云う。 — 石川清秋、水戸紀年 (2)徳川家康仕えた武田遺臣の数は、「武田武士の系譜」(土橋治重著、新人物往来社1972年)によると、千数百人とされ、同書には、各種史料から集計した1,107人の名前掲載されている。それを「甲陽軍鑑」品第17照合すると、「二十人頭」10名については、4人が確認できる伊藤玄蕃の名前は確認できない。)。

※この「武田氏滅亡後の伊藤玄蕃」の解説は、「伊藤玄蕃」の解説の一部です。
「武田氏滅亡後の伊藤玄蕃」を含む「伊藤玄蕃」の記事については、「伊藤玄蕃」の概要を参照ください。

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