武田氏遺領争いとは? わかりやすく解説

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武田氏遺領争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:18 UTC 版)

北条氏直」の記事における「武田氏遺領争い」の解説

天正9年1581年)、叔父武田勝頼三島戦ったが、決着はつかずに終わった。翌天正10年1582年3月信長侵攻で勝頼などが討死して武田氏滅亡し甲州征伐)、甲斐遺領信長の家臣河尻秀隆信濃国一部上野国西部滝川一益与えられ、一益は関東守護自称した。 しかし6月信長本能寺の変横死し、河尻秀隆土豪一揆殺害され甲斐国無主の国となると、氏直は叔父北条氏邦と共に43千を称する大軍をもって上野侵攻開始し6月16日には倉賀野表(群馬県高崎市)に進出する本庄本営を置き、富田石神布陣18日には金窪城で滝川軍と北条軍激突し初戦では氏邦が率い先鋒敗退したが、19日神流川の戦いで氏直本軍が一益軍に勝利した。そして敗走する一益を追って上野国から信濃国侵攻し佐久郡小県郡支配下におさめ、諏訪進軍し諏訪頼忠味方に付けた。更に木曾義昌叔母真竜院の夫)とも連絡取り中信地方制した8月に氏直は甲斐北西部若神子城北杜市須玉町若神子)に本陣を置き、新府城本陣七里岩台上布陣し徳川家康軍と甲斐若神子城において対陣した。「甲斐祖父武田信玄)の旧領国」ということ領有強く望む氏直と徳川軍との対陣80日間及んだ天正壬午の乱)が、滝川一益敗退後に北条帰参していた真田昌幸木曾義昌離反し家康方の依田信蕃ゲリラ活動行い北条軍補給路を脅かし別働隊北条氏忠北条氏勝甲斐国八代郡黒駒山梨県笛吹市御坂町)において徳川方鳥居元忠らに敗退すると戦線膠着した(黒駒合戦)。その後織田信雄・信孝兄弟調停もあり、10月27日上野は氏直、甲斐信濃家康領有し家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍和睦同盟成立する。そしてこの結果として天正11年1583年8月15日家康の娘・督姫が氏直に嫁いだ。なお、天正12年1584年)の沼尻の合戦最後に氏政の出陣見られなくなること、同年12月にはそれまで氏政が官途名としていた左京大夫を氏直が名乗り始めていることから、公の場においては氏直が北条氏当主として認識されるようになっていった。なお、黒田基樹はこの時期の氏直側近として、山上久忠・山角直繁・垪和豊繁の3名を挙げている。

※この「武田氏遺領争い」の解説は、「北条氏直」の解説の一部です。
「武田氏遺領争い」を含む「北条氏直」の記事については、「北条氏直」の概要を参照ください。

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