武田氏配下時の動向
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業繁は永禄5年(1562年)12月までの間に甲府に参府し、本来は妻子・従類を信濃へ移すべきところを和田城周辺の情勢が不安定であることや和田氏そのものに被官が不足していることから老母を人質に出すことで了解を得ている。『甲陽軍鑑』によると和田氏の軍役は30騎となっており上野先方衆の中では下から三番目に少なく、当初の和田城の規模も国衆としての規模も小さいものであったと考えられる。しかし和田城が上杉方の厩橋城や箕輪長野氏の箕輪城に対して最前線に位置する要地であったこともあり、信玄の支援で和田城への武田氏譜代家臣の常駐・城郭の強化・武器・食糧の充実・有事における援軍の派遣など様々な便宜が図られることになった。また、上杉氏に提出した人質の弟も武田氏による人質返還交渉により帰還した。上野に度々侵攻した上杉謙信も和田城の攻略を狙い、永禄6年(1563年)閏12月から翌年4月までに断続的に攻撃を行い、同8年8月にも攻撃を行った。しかし武田氏による改修により和田城が堅固なものとなったため、攻略することができなかった。永禄9年(1566年)に箕輪城が武田氏によって攻略され武田氏による西上野支配が安定すると和田城周辺の情勢も安定し、武田氏譜代家臣の常駐などの事実も見られなくなる。 永禄11年(1568年)末から武田氏と後北条氏の抗争が発生すると上杉方に離反の動きをみせ、元亀元年(1570年)頃に謙信宛に差し出した書状も存在する。しかし結局武田氏の元に残留した。信玄が死去すると引き続き武田勝頼幕下の先方衆となり、天正2年(1574年)7月には駿河・遠江方面への出陣の功賞として遠江国山口(現・掛川市)にて500貫文を与えられている。翌3年(1575年)の長篠の戦いでは、籠城する長篠城を俯瞰できる対岸の君が臥床砦に布陣したが、5月21日、徳川方の酒井忠次の奇襲に遭遇して戦死した。跡を婿養子・信業(跡部勝資の子)が継いだ。
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