武田氏配下として
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永禄3年(1560年)8月末、上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻(小田原城の戦い)を行った。この際に小幡一族は鷹巣城の小幡三河守信尚、庶流の小幡道佐が上杉方に参陣していることが『関東幕注文』から確認でき、憲重の下でまとまって行動することができなかったようである。憲重は相婿で従兄弟でもある神成城(現・富岡市)主・小幡図書助の内通によって国峰城を追われ、武田氏を頼り南牧城に在城したという。 翌4年(1561年)11月に武田氏は西上野侵攻を行い、憲重も図書助の子・景高を追放し国峰城を奪還し、旧領復帰に成功した。この年の12月には「尾張入道」と称していることからこれ以前には出家したようである。その後武田氏による西上野支配が進められていく中で後北条氏との両属関係は失われ、武田氏への従属を強めていった。 その後、同10年(1567年)には嫡子・信実が史料上の初見としてみられ、この時点で家督は譲られているという。史料上の終見は天正8年(1580年)7月の武田勝頼からの書状であり、『小幡氏歴代法名記録』によると、同11年(1583年)8月15日に死去したと推定される。妻の長野氏は、同17年(1589年)7月28日に死去。
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武田氏配下として
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信氏は秋山虎繁(信友)配下となり、『甲陽軍鑑』では信濃先方衆に含まれている。武田晴信(信玄)からは重用され、その妹を正室に与えられる。晴信の「信」を与えられて信氏と改名し(「武田氏系図」)、『下条記』では信氏ら下伊那衆は山県昌景の相備衆(与力)に任じられた。 武田氏の信濃先方衆として、弘治3年(1557年)の三河武節城攻め、永禄4年(1561年)の川中島の戦いに参戦している。永禄6年(1563年)には今川氏真の依頼を受けた信玄の命により信濃三河国境で松平元康と接触している。天正3年(1575年)4月に武田勝頼が徳川領国の三河に侵攻し足助城を攻略した後は、足助城在番を命じられている。その為8月に起こった長篠の戦いには参戦せず、敗戦の報に接し信濃に撤退している。敗戦直後の武田勝頼による伊那郡防衛に関する指示では浪合口(阿智村)と新野口(阿南町)の防衛を担当し、亡命してきた山家三方衆らを与力とした。
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武田氏配下として
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武田氏配下後も隠居していたとはいえ実権を握っていたとみられ、活動が確認できる。武田氏との関係は不安定であったらしく、永禄7年(1564年)に安中氏の被官で武田氏への従属に貢献した赤見綱泰の進退の保証を武田信玄より依頼されている。同年11月には上杉方へ離反する動きを見せたらしく、武田氏より警戒されている。翌8年(1565年)6月には上杉方との人質交換交渉で次男の返還が検討されていたが、和田業繁の申し出によって和田氏の人質返還に変更されたため実現しなかった。翌9年(1566年)9月に箕輪城が攻略され武田氏の西上野支配が安定すると、安中氏も完全に武田氏に服属し、忠勤に励むようになった。碓氷郡においては、後閑の依田氏が箕輪長野氏と共に武田氏に対抗して没落し、入れ替わりで武田氏配下の後閑信純が後閑に入部したため、碓氷郡の国衆は安中氏と後閑氏のみとなった。 その後、永禄11年(1568年)6月までの活動が確認される(「長伝寺文書」)。没年は不明。
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武田氏配下として
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永禄10年(1567年)8月1日に馬頭観音菩薩像を寄進しているのが当主としての史料上の初見であり、これ以前に父・憲重から家督を譲られたという。同年同月に提出された『下之郷起請文』では「右衛門尉信実」の名が確認され、単独で取次の原昌胤に提出している。『下之郷起請文』によると小幡氏の一族・被官・同心衆は廿楽郡の国峯城周辺や南牧川流域・神流川流域、多胡郡の鏑川流域に展開し、他の小幡一族や信実の同心とみられる一宮氏忠や高田繁頼の支配領域を合わせると廿楽郡のほぼ全域を信実が管轄していたと考えられている。 翌11年(1568年)末以降から発生する武田氏と後北条氏の抗争に際して、一族で鷹巣城(現・下仁田町)主・小幡信尚や多胡郡長根(現・高崎市)領主・小幡縫殿助らが同12年(1569年)7月に武蔵御嶽城主・平沢政実の誘いを受けて後北条氏に離反している。後に縫殿助は武田氏に帰参しているが、信尚はその後の史料に現れず没落したようである。信実は武田方として各地を転戦し、同年12月の駿河蒲原城攻略戦で弟・信高が戦死している。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いでは先手を務め、弟・昌定が戦死した他に信実自身も負傷している。 なお、永禄11年11月には「上総介」の官途名の名乗りが確認でき、天正元年(1573年)には「上総介信真」の名乗りが確認できる。 同3年(1575年)の長篠の戦いにも参陣した。この際に信真もしくは父・憲重が戦死したという伝承があるが、実際には両者とも戦後存命している。
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