高田繁頼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 14:19 UTC 版)
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生誕 | 大永6年(1526年) |
死没 | 元亀4年4月5日(1573年5月6日) |
別名 | 小次郎、大和守 |
主君 | 上杉憲政→北条氏康→上杉謙信→武田信玄 |
氏族 | 高田氏 |
父母 | 父:高田憲頼 |
兄弟 | 右衛門佐、繁頼 |
妻 | 安中重繁の娘 |
子 | 信頼 |
高田 繁頼(たかだ しげより)は、戦国時代の武将。上野国甘楽郡の国衆。高田城(現・群馬県富岡市妙義町下高田)城主。
生涯
山内上杉氏の家臣・高田憲頼の次男。天文16年(1547年)8月の信濃小田井原の戦いで父と兄・右衛門佐が戦死し、家督を継ぐ[1]。同21年(1552年)に主君・上杉憲政が後北条氏に関東を追われると、繁頼は後北条氏に従ったとみられる。永禄3年(1560年)に上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻が起きると、謙信に従い、箕輪長野氏の指揮下に入る。『関東幕注文』によると、この時点では「小次郎」を称している[1]。翌4年(1561年)11月に武田信玄の西上野侵攻を受けると、武田氏の従属下に入る。武田氏配下においては、同じ甘楽郡の国衆で国峯城主・小幡信実の同心とされたと考えられている[2]。同10年(1567年)8月7日付で提出された『下之郷起請文』では「大和守」の名乗りが確認され、取次の原昌胤に単独で提出している[1]。同12年(1569年)6月に武田氏から離反した小幡信尚を追討し、その功を信玄から評されている。同年10月の武田軍による小田原城攻めでは先鋒を務めた。
元亀3年(1572年)12月の遠江三方ヶ原の戦いに参陣し、負傷した。その傷が元で翌年に死去。享年48。家督は嫡男の信頼が継いだ[1]。
脚注
参考文献
- 高田繁頼のページへのリンク