安中景繁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 18:15 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) |
別名 | 七郎三郎(通称)、忠成 |
官位 | 左近太夫 |
主君 | 武田信玄 |
氏族 | 安中氏 |
父母 | 父:安中重繁、母:沼田顕泰の娘 |
兄弟 | 景繁、高田繁頼室、男子 |
妻 | 長野業正または長野業氏娘 後室:甘利虎泰娘[1] |
子 | 久繁[2]? |
安中 景繁(あんなか かげしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国安中城主。
略歴
安中重繁の嫡男として誕生。「景」の一字は、安中氏が長尾氏(越後上杉氏)に従属していた時期に長尾景虎(後の上杉謙信)の偏諱を受けたと推定される[3]。なお、『和田記』など近世の著作では、左近大夫の実名を忠成(ただなり)とするものがあるが、古文書から裏付けられる実名は景繁である。
永禄5年(1563年)に甲斐武田氏が上野に侵攻した際に、父・重繁は松井田城、景繁は安中城にて抵抗するが、景繁は早い時期に降伏したため安中城を安堵されるが、父の重繁は抵抗を続けたために降伏後に松井田城を没収された上に出家・隠居を余儀なくされ、代わりに景繁が家督を継いだ。
武田氏に従属後は、譜代家老で上野国衆との取次を務めた甘利信忠(昌忠)の指揮下に入り、その妹を妻としている。天正3年(1575年)5月21日、武田氏と織田氏が三河国で衝突した長篠の戦いに、安中勢を率いて従軍し戦死した。没後、息子の左近大夫[4]が跡を継いだ。
長篠の戦いに出兵した安中氏の軍は全滅に近く、当主以下ただの一人も安中へ帰ってくることができなかった、とする話も伝わる。
脚注
出典
- 黒田基樹「戦国期上野安中氏に関する基礎的考察」『武田氏研究』11号、1993年/改題:「安中氏の研究」『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年
- 黒田基樹「戦国期安中氏の動向」安中市学習の森ふるさと学習館編『西上州の中世』同左、2010年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年
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