虎泰の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:44 UTC 版)
虎泰の子息には信忠(昌忠)・信康がおり、信忠が家督を継承する。信忠は永禄10年(1567年)に死去し、信忠の子息である信頼が幼少であったため、信康や米倉丹後守が名代となり補佐した。一方、信康は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死している。『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して「甘利左衛門尉」が武田家から離反しており、これが信頼にあたるとも考えられている。その後の信頼の動向は不明。 虎泰の娘には、『系図纂要』『甲陽軍鑑』によれば安中景繁後室、坂西左衛門室がいる。『保科御事歴』によれば、保科正則室としているが、これは世代的問題から否定されている。
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