小田原城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 21:55 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動小田原城の戦い
- 小田原城の戦い (1560年) - 永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)に関東で行われた上杉氏・長尾氏の連合軍と後北条氏による合戦。
- 小田原城の戦い (1569年) - 永禄12年(1569年)に武田氏による駿河侵攻に関連して行われた武田氏と後北条氏による合戦。
- 小田原征伐 - 天正18年(1590年)に行われた豊臣秀吉が、関東の後北条氏を降した合戦。
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小田原城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
永禄2年(1559年)5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。室町幕府の記録『後鑑』(江戸時代末期に江戸幕府が編纂)には、『関東管領記』『関東兵乱記(相州兵乱記)』『春日山日記(上杉軍記)』を出典として掲載されている。また、内裏修理の資金を献上したともいうが、朝廷の記録である『御湯殿上日記』には、永禄3年6月18日に、越後の長尾(景虎)が内裡修理の任を請う、という記述があるだけで、年次や記述内容に違いがある。『言継卿記』には、永禄2年5月24日、越後国名河(長尾)上洛云々、武家御相判御免、1,500人。という記述であり、上杉家譜などの兵5,000という記述と異なる。 なお、天野忠幸はこの年に景虎だけではなく、織田信長や斎藤義龍も急遽上洛していることに注目している。この前年である永禄元年、足利義輝と三好長慶の戦いは長慶が正親町天皇の支持を取り付けて有利な形で和睦しており、曲りなりにも存続してきた室町将軍を頂点とする秩序が大きな打撃を受けた。このため、義輝との関係を維持することで権威を保ってきた諸大名が動揺し、状況を確かめるために上洛に踏み切ったのではないか、と推測している。 景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の違いが大きく実現しなかった。 永禄3年(1560年)3月、越中国の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げ延びた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。 5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。上野国に入った景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城など北条方の諸城を攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、景虎の下へ結集、兵の数は増大した。 年が明けると、景虎は自ら軍の指揮を執り上野国から武蔵国へ進撃。深谷城、忍城、羽生城等を支配下に治めつつ、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻、2月には鎌倉を落とした。氏康は、総大将が武略に優れる景虎であるため、野戦は不利と判断。相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ退却し、篭城策をとる。 永禄4年(1561年)3月、景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万余の軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を追い込む。 また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。 小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が関東で氏康と戦っている間に、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。こうした情勢の中、長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いた。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させる(松山城の戦い)。松山城には城将として上杉憲勝を残し、厩橋城には城代に義弟・長尾謙忠を置いて帰国した。
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