小田原城奪取
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「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの宗瑞のことである。 明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼。扇谷側として宗瑞は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、撤兵した。 扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去した。 宗瑞は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。 『北条記』によれば、宗瑞は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して親しく歓談するようになった。ある日、宗瑞は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。 その夜、千頭の牛の角に松明を灯した宗瑞率いる伊勢氏の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。金子浩之は、土石流を「牛」になぞらえた伝承があるという笹本正治の説を元に、1495年に起きた明応地震の津波に乗じて小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と呼ばれたようになったのではないかと推測している。あるいは火牛の計は中国の戦国時代、斉の将軍田単が用いた戦術で、教養を持つ知識層には知られていた可能性があり、これが事実用いられたか、武勇伝作りに利用されたと考えることもできる。 この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は、明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、山内顕定の書状に扇谷家の守備側として大森藤頼と宗瑞の弟弥二郎の名が見られることを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている。『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、子の幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、伊勢氏の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。 また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に宗瑞が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では伊勢氏が小田原城を既に領有していたとみられている。 小田原城奪取など宗瑞の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-宗瑞の陣営と、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を宗瑞が騙し討ちしたとされるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。 明応8年(1498年)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある。 今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年 - 1504年)には三河にまで進んでいる。『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城(愛知県岡崎市岩津町)下にて松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったという。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。
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