小田原城陥落の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/10 08:48 UTC 版)
軍記物を通じて広く知られた逸話によると、氏頼の没後に伊勢宗瑞(北条早雲)が進物を贈るようになり、友好関係を装い藤頼に接近し、油断した藤頼が盛時の箱根山中鹿狩を許してしまったため、勢子に擬装した兵の奇襲を受け、小田原城を略取され追放されたといわれる。この事件が起きた年代については通説では、明応4年(1495年)とされているが、その翌年に書かれたとされる山内上杉家の上杉顕定の手紙には大森氏(藤頼か?)を小田原城に攻めたが、早雲と三浦義同(道寸)の援軍に敗れたとあり、早雲が小田原城を奪ったのはそれ以後、文亀元年(1501年)までには奪取されたと考えられている。また、城の奪取に際し、藤頼と早雲にこのようなやり取りがあったかは不明である。
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