甲相駿三国同盟の成立
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天文14年(1545年)の第2次河東一乱で信玄は一時義元と結び氏康と対陣するも、今川・北条間の和睦を仲裁して両家に大きな「貸し」を作った。そしてこれによって関東へ転戦できる状況を得た氏康は、河越城の戦いで大逆転勝利を飾る。後年さらに三河における織田氏との対立問題を抱える義元を加えて、三家で婚姻関係を結び直し、攻守同盟として機能する甲相駿三国同盟に発展させ、甲相同盟はその一角となった。 信玄は三国同盟を背景に信濃侵攻を本格化させ、北信諸族を後援する越後の長尾景虎(後の上杉謙信)との対決傾向を強め、数次にわたる甲越対決(川中島の戦い)を展開する。また氏康は北関東侵攻において、関東管領の上杉憲政を庇護し山内上杉家と関東管領を継承することになる謙信と対立することになった。共通の敵である上杉氏(長尾氏)に対し甲相同盟は相互に出兵要請を行うなど軍事同盟として有効に機能しており、謙信は二正面作戦を余儀なくされた。 永禄3年(1560年)、上杉謙信が後北条氏の小田原城の戦い (1560年)にて小田原城を包囲する。武田信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵、上杉謙信の本国を脅かした。これを受けて上杉謙信は小田原包囲を解いて川中島の善光寺に出兵した。
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