永禄3年の上杉謙信の越中出兵
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「椎名康胤」の記事における「永禄3年の上杉謙信の越中出兵」の解説
永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請し、永禄3年(1560年)3月、上杉軍により富山城、増山城は陥落し、長職は逃亡した。危機を脱した康胤は、同年の景虎の関東出陣に従軍している。しかし神保長職が勢力を回復し、永禄5年(1562年)9月5日、神通川の戦いで椎名軍は神前孫五郎を討ち取られるなどの大敗を喫し、居城の金山城(松倉城)まで攻め込まれる事態となった。ところが、翌月には再び謙信が来援し、遂に長職を降伏へと追い込んだ。これは康胤が長尾一族の長尾景直を養子に迎えており、強固な上杉氏との結びつきによるものといえた。しかし、宿敵・神保長職は神保氏と関係が深い能登畠山氏の仲介により中郡(婦負・射水郡)の支配権を安堵され、康胤には不満の残る処置となった。
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永禄3年の上杉謙信の越中出兵
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「富山城」の記事における「永禄3年の上杉謙信の越中出兵」の解説
神保長職は永禄3年(1560年)、椎名氏を支援する上杉謙信の攻撃により富山城に火をかけ逃亡。長職は増山城に逃れて抵抗したものの、1562年(永禄5年)上杉氏に降伏し、射水・婦負二郡の支配権は認められる(砺波郡は長職の増山城での在城が認められたが、城将として吉江宗信などが入る)。
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永禄3年の上杉謙信の越中出兵
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「越中の戦国時代」の記事における「永禄3年の上杉謙信の越中出兵」の解説
永禄3年(1560年)3月、神保長職・越中一向一揆連合軍(武田氏方)がの椎名康胤(上杉氏方)の松倉城 (越中国)に侵攻した。信濃国平定を目指す信玄が長尾景虎(上杉謙信)の矛先をかわすため、神保長職・越中一向一揆に要請して起こった合戦であった。椎名康胤の後詰として上杉謙信は越中に出兵して越中一向一揆を破り、神保長職が立て籠もった富山城を落とした。神保長職は増山城に退いた。しかし、直後に上杉謙信は北条氏康に圧迫されていた関東諸侯の要請を受けて関東に侵攻することになったため(小田原城の戦い)、神保長職を完全に追討することができず、神保長職は上杉謙信が関東に出兵していた間に武田信玄の後援を受けて増山城を奪還した。 永禄4年(1561年)8月、武田信玄と上杉謙信が川中島で衝突する(第四次川中島の戦い)。 永禄6年(1563年)、江馬輝盛が中地山城(富山県富山市中地山)を築城。上杉氏と結ぶ。
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