永禄7年の合戦の経緯とは? わかりやすく解説

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永禄7年の合戦の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/23 02:13 UTC 版)

岩付城の戦い」の記事における「永禄7年の合戦の経緯」の解説

天文15年1546年4月河越夜戦北条氏康扇谷上杉朝定討ち取って大勝した結果扇谷上杉家滅亡した岩付城太田家は資頼の子・資正が城主となり、越後上杉家支援を得ながら抵抗していたが、永禄7年1564年)の第2次国府台合戦味方里見氏敗れたため、資正は北条氏康降伏する。氏康は資正の嫡子・氏資に自分の娘と婚姻させる事を条件とし、資正もこれを了承した。ところが氏資は、異母弟梶原政景岩槻城内に拘束し、政景の生母小田原城人質として差し出してしまう。資正と氏資は日頃から親上杉親北条と方針めぐって争い不仲で、さらに資正は庶子の政景を偏愛していた。そのため氏資は北条家との婚姻を資正が自らを人質にして弟を城主にするための陰謀邪推したのである。 これは一説に氏康の人間関係疑心暗鬼利用した謀略だったともされている。資正と政景は氏資により岩槻から追放され、資正らは常陸佐竹氏頼って落ち延び、後に奪還試みるが失敗した。 氏資は永禄10年1567年)の三船山合戦戦死し以後岩付城北条一門重要な属城となる。

※この「永禄7年の合戦の経緯」の解説は、「岩付城の戦い」の解説の一部です。
「永禄7年の合戦の経緯」を含む「岩付城の戦い」の記事については、「岩付城の戦い」の概要を参照ください。

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