永禄7年の合戦の経緯
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「岩付城の戦い」の記事における「永禄7年の合戦の経緯」の解説
天文15年(1546年)4月の河越夜戦で北条氏康が扇谷上杉朝定を討ち取って大勝した結果、扇谷上杉家は滅亡した。 岩付城の太田家は資頼の子・資正が城主となり、越後上杉家の支援を得ながら抵抗していたが、永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦で味方の里見氏が敗れたため、資正は北条氏康に降伏する。氏康は資正の嫡子・氏資に自分の娘と婚姻させる事を条件とし、資正もこれを了承した。ところが氏資は、異母弟の梶原政景を岩槻城内に拘束し、政景の生母を小田原城へ人質として差し出してしまう。資正と氏資は日頃から親上杉、親北条と方針をめぐって争い不仲で、さらに資正は庶子の政景を偏愛していた。そのため氏資は北条家との婚姻を資正が自らを人質にして弟を城主にするための陰謀と邪推したのである。 これは一説に氏康の人間関係の疑心暗鬼を利用した謀略だったともされている。資正と政景は氏資により岩槻から追放され、資正らは常陸の佐竹氏を頼って落ち延び、後に奪還を試みるが失敗した。 氏資は永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死し、以後岩付城は北条一門の重要な属城となる。
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