永禄九年の政変とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/12 05:51 UTC 版)
しかし、義綱中心の大名専制支配に反発した長続連、遊佐続光、八代俊盛などの重臣が永禄9年(1566年)にクーデターを起こして義続・義綱父子らを追放した(永禄九年の政変)。このため、義綱らは縁戚関係にあった六角氏の領地である近江国坂本に亡命した。 永禄11年(1568年)7月7日から10月26日の間に、義綱から義胤に改名をしている(『自養録紙背文書』)。 能登奪回を目指す義綱らは、六角氏の支援と上杉謙信や神保長職らの連携により、永禄11年(1568年)に能登に侵攻したが、失敗して敗退した。その後も復権するために画策するが叶わなかった。 当主の地位を奪回すべく奔走していた永禄9年から同12年にかけて、医道奥儀相伝を基礎とする義綱と曲直瀬道三の交流が確認される。この背景には能登畠山氏の歴代当主が文化を尊び、医道に深い関心を持っていたことと、義綱が中風の治療を希望していたことが挙げられる。 後に豊臣秀吉の家臣になったという史料もあるが定かではない。義綱は文禄2年(1593年)12月21日に近江国伊香郡(余呉町)の余吾浦で死去した。
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