永禄元年の戦いとは? わかりやすく解説

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永禄元年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:24 UTC 版)

門司城の戦い」の記事における「永禄元年の戦い」の解説

毛利氏は、永禄元年1558年6月門司城攻略した考えられる。その史料少ないが、『新裁軍記』には、次の記載がある。 大友左衛門督依る所の豊前門司城攻め、これを陥れる年月日未審、この戦い児玉就忠書状あり、貫助八元助(規矩郡貫の人)粉骨戦功有り — 『新裁軍記児玉就忠から貫助八宛て6月12日年記なし)付け書状があり、これが永禄元年のものである考えられる石見国小笠原長雄攻撃中の毛利元就が、小早川隆景命じて水軍奇襲させて門司城攻略したものと推測される。そして毛利隆元は、筑前豊前方面諸将調略し、筑前宗像氏豊前・長野氏味方とすることに成功、各将は大友反旗を翻し挙兵する。 大友義鎮豊前領土確保するため、10月13日田原親宏臼杵鑑速吉弘鑑理斎藤鎮実戸次鑑連(立花道雪)ら1万5千を門司城へ派軍した。大友前線の親宏・鑑速・鑑理らは毛利勢の元春・隆景らの連携攻勢苦戦しながら、豊前規矩大里柳ヶ浦村布陣する鑑連は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜し毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、その矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第恐怖感焦燥感募らせ、元春・隆景ら毛利勢は鑑連・鎭実ら大友勢の挟撃ちで総崩れ門司城退却し15日、城から出て毛利領へ帰るが、大友軍の臼杵鎮続追撃受けた。こうして大友氏門司城奪還して、再び怒留湯直方城将として務める。この戦は第一次ヶ浦の戦いとも伝わる。

※この「永禄元年の戦い」の解説は、「門司城の戦い」の解説の一部です。
「永禄元年の戦い」を含む「門司城の戦い」の記事については、「門司城の戦い」の概要を参照ください。

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