永禄の変と畿内への進出
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永禄5年(1562年)3月、三好軍が畠山・六角軍と久米田で交戦して敗北し、三好実休が戦死した(久米田の戦い)。死後、阿波三好氏は実休の嫡子・三好長治が継いだ。 永禄7年(1564年)7月、三好氏の惣領たる長慶が病死した。長慶の死後、三好氏は長慶の甥で十河一存の息子・三好義継が新たな惣領となり、三好三人衆や松永久秀・久通父子が補佐にあたった。その結果、長慶の死によって弱体化する三好氏と、権威を上昇させる義輝との間には、修復し難い対立が生じた。 永禄8年(1565年)5月19日、将軍・足利義輝が京都の二条御所において、三好義継と三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、義輝の後継者として、公家や宣教師は平島公方家が擁立されるとの噂をしている。実際、三好方が義輝を殺害した理由が平島公方の擁立にあったのかは不明ではあるが、阿波で逼塞していた義維にとっては大きな好機であった。 永禄9年(1566年)4月、義輝の弟・足利義昭が朝廷から従五位下・左馬頭に叙任され、反三好陣営が活気づいた。もともと、義継や三好三人衆は足利将軍家に依存しない体制の構築を目指していたが、この劣勢を覆すため、平島公方を庇護する阿波三好氏との連携に踏み切った。 平島公方を庇護していた阿波三好氏では、その宿老の篠原長房が中心となって軍事行動の準備を進めた。たが、義維はこのとき50代であり、なおかつ咳気と中風を患っていたため、息子の義栄が擁立されることになった。 6月、義栄は阿波の諸将に擁されて、阿波から淡路の志知に進み、四国一円に軍勢催促を行った。これにより、阿波三好氏の宿老・篠原長房が先陣として2万5千の兵を率いて渡海し、兵庫浦へ上陸、西宮に布陣した。 9月23日、義栄が畿内へ渡海して、摂津の越水城に入城した。このとき、義維ももう一人の息子・義助と阿波から渡海し、義栄に同道する形で越水城に入っている。 12月7日、義栄は義維らとともに、摂津の越水城から富田荘の普門寺に移った。その後、篠原長房が越水城に入城し、畿内における活動拠点とした。
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