永禄の変と畿内への進出とは? わかりやすく解説

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永禄の変と畿内への進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)

足利義維」の記事における「永禄の変と畿内への進出」の解説

永禄5年1562年3月三好軍が畠山六角軍と久米田交戦して敗北し三好実休戦死した久米田の戦い)。死後阿波三好氏は実休の嫡子三好長治継いだ永禄7年1564年7月三好氏惣領たる長慶病死した。長慶死後三好氏長慶の甥で十河一存息子三好義継新たな惣領となり、三好三人衆松永久秀久通父子補佐あたったその結果長慶死によって弱体化する三好氏と、権威上昇させる義輝との間には、修復し難い対立生じた永禄8年1565年5月19日将軍足利義輝京都二条御所において、三好義継三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。このとき、義輝後継者として、公家宣教師平島公方家擁立されるとの噂をしている。実際三好方が義輝殺害した理由平島公方擁立にあったのかは不明ではあるが、阿波逼塞していた義維にとっては大きな好機であった永禄9年1566年4月義輝の弟・足利義昭朝廷から従五位下左馬頭叙任され、反三好陣営活気づいた。もともと、義継や三好三人衆足利将軍家依存しない体制構築目指していたが、この劣勢覆すため、平島公方庇護する阿波三好氏との連携踏み切った平島公方庇護していた阿波三好氏では、その宿老篠原長房中心となって軍事行動準備進めた。たが、義維はこのとき50代であり、なおかつ咳気中風患っていたため、息子の義栄が擁立されることになった6月、義栄は阿波諸将に擁されて、阿波から淡路志知進み四国一円軍勢催促行った。これにより、阿波三好氏宿老篠原長房先陣として25千の兵を率いて渡海し、兵庫浦へ上陸西宮布陣した。 9月23日、義栄が畿内渡海して、摂津越水城入城した。このとき、義維ももう一人息子義助阿波から渡海し、義栄に同道する形で越水城入っている。 12月7日、義栄は義維らとともに摂津越水城から富田荘普門寺移ったその後篠原長房越水城入城し畿内における活動拠点とした。

※この「永禄の変と畿内への進出」の解説は、「足利義維」の解説の一部です。
「永禄の変と畿内への進出」を含む「足利義維」の記事については、「足利義維」の概要を参照ください。

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