永禄7年(1564年)の戦い 里見軍・木曾左馬介 vs 北条氏政
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里見義堯は、越後の上杉謙信の関東侵攻に呼応して、里見義弘を総大将に岩槻城主太田資正2千の軍を含め8千の兵(1万2千の説もある)を派遣し、永禄7年(1564年)1月7日、再び江戸川国府台で北条氏康、北条氏政父子の軍勢2万と対戦した(第二次国府台合戦)。 里見義弘は緒戦の勝利に油断したところを奇襲され敗北し、安房に退却した。 これを追った北条氏政軍は椎津城を攻め、守将木曾左馬介を敗退させた「市原郡誌」。 里見義弘は、この退却の際に太田資正(三樂齋)と共に一時椎津城に入城している。 「南総酒井傳記」卷の三 高府臺合戰、生實城沒落の事。 「(略)此の際に、太田美濃守を同道して椎津の城に入らせられ、暫く息繼居たりける所に、又もや北條左衞門、松田左馬介、軍勢を備へ駈け來りしかば、「すはや大軍」と見る所に、はや日も暮に及びければ、「長追ひ無用」と、遂に軍勢を引き返す。」 北条氏は、椎津城に白幡六郎を置いて守らせた。「市原郡誌」
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