永禄7年の戦い 里見軍・木曾左馬介 vs 北条氏政とは? わかりやすく解説

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永禄7年(1564年)の戦い 里見軍・木曾左馬介 vs 北条氏政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 23:30 UTC 版)

椎津城」の記事における「永禄7年1564年)の戦い 里見軍・木曾左馬vs 北条氏政」の解説

里見義堯は、越後の上謙信関東侵攻呼応して里見義弘総大将岩槻城太田資正2千の軍を含め8千の兵(1万2千の説もある)を派遣し永禄7年1564年1月7日、再び江戸川国府台北条氏康北条氏政父子軍勢2万対戦した第二次国府台合戦)。 里見義弘緒戦勝利油断したところを奇襲され敗北し安房退却した。 これを追った北条氏政軍は椎津城攻め、守将木曾左馬介を敗退させた「市原郡誌」。 里見義弘は、この退却の際に太田資正三樂齋)と共に一時椎津城入城している。 「南総酒井傳記卷の三 高府合戰生實城沒落の事。 「(略)此の際に、太田美濃守を同道して椎津の城に入らせられ、暫く息繼居たりける所に、又もや北條左衞門松田左馬介、軍勢を備へ駈け來りしかば、「すはや大軍」と見る所に、はや日も暮に及びければ、「長追無用」と、遂に軍勢を引き返す。」 北条氏は、椎津城白幡六郎置いて守らせた。「市原郡誌」

※この「永禄7年(1564年)の戦い 里見軍・木曾左馬介 vs 北条氏政」の解説は、「椎津城」の解説の一部です。
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