永禄5年の戦い
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永禄5年(1562年)尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と七人の国衆を派遣した。 7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種を追い出して、城将・千手宗元を降伏させる。 13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせたものの、翌14日には門司城を攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言や桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。これは毛利元就が、7月に出雲攻略に向かった隙を突いて、大友方が攻め入ったものと見られる。 大友軍はさらに毛利軍の手に落ち天野隆重と杉重良が守っていた松山城の奪還を目指し豊前苅田町に着陣。9月1日上毛郡夜戦・13日から11月19日まで七度におよぶ松山城攻にて戸次鑑連ら大友勢が攻撃を仕かけたが決戦には至らなかった。松山城を包囲している間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いにいたった。鑑連の家臣・安東常治や安東連善らが鑑連に従って奮戦し門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げて大友宗麟から賞されている。しかし、このときは門司城を攻略するにはいたらず11月26日にも門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出している。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった。
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