永禄5年の戦いとは? わかりやすく解説

永禄5年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:24 UTC 版)

門司城の戦い」の記事における「永禄5年の戦い」の解説

永禄5年1562年尼子義久要請受けた大友宗麟再度豊前出兵命じ、二老(戸次鑑連吉弘鑑理)と七人国衆派遣した7月大友軍は再び香春岳城攻め落とし原田親種追い出して城将千手宗元を降伏させる13日、鑑連は門司城進軍し第二次ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣由布惟信一番槍戦功挙げ、その騎馬疾駆縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせたものの、翌14日には門司城攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。これは毛利元就が、7月出雲攻略向かった隙を突いて大友方が攻め入ったものと見られる大友軍はさらに毛利軍の手落ち天野隆重杉重良守っていた松山城奪還目指し豊前苅田町着陣9月1日上毛郡夜戦13日から11月19日まで七度におよぶ松山城攻にて戸次鑑連大友勢が攻撃を仕かけたが決戦には至らなかった。松山城包囲している間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し10月13日夜昼大里において第三次ヶ浦の戦いいたった。鑑連の家臣安東常治や安東連善らが鑑連に従って奮戦し門司城代・冷泉元豊赤川元徳桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げて大友宗麟から賞されている。しかし、このときは門司城攻略するにはいたらず11月26日にも門司城下で合戦があり、数百人の負傷者死者出している。翌永禄6年1563年正月毛利隆元小早川隆景大軍到着して両軍にらみ合いとなった

※この「永禄5年の戦い」の解説は、「門司城の戦い」の解説の一部です。
「永禄5年の戦い」を含む「門司城の戦い」の記事については、「門司城の戦い」の概要を参照ください。

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