冷泉元豊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 冷泉元豊の意味・解説 

冷泉元豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 09:25 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
冷泉元豊
時代 戦国時代
生誕 天文7年(1538年
死没 永禄5年10月13日1562年11月19日
別名 五郎(通称
主君 大内義隆毛利元就
氏族 多々良姓大内流冷泉氏
父母 冷泉隆豊平賀弘保又は平賀玄信
兄弟 元豊元満
桂元澄[1]
テンプレートを表示

冷泉 元豊(れいぜい もととよ)は、戦国時代武将大内氏毛利氏の家臣。

出自

冷泉氏大内氏の支流。祖父・冷泉興豊が母方の冷泉家の家号を称して冷泉氏を名乗った。

生涯

天文7年(1538年)、大内氏家臣である冷泉隆豊の子として誕生。

天文20年(1551年9月1日、父・隆豊が大寧寺の変において大内義隆に最期まで付き従って戦死した。元豊はまだ年少であったため、弟の四郎(のちの元満)と共に叔父(隆豊の実弟)である吉安豊英に連れられて安芸国国人であった平賀氏の前当主・平賀弘保の許へと逃亡した。その後、弘治元年(1555年)から始まる毛利元就防長経略の際に毛利氏に仕え始め、元服の際には元就より「元」の偏諱を受けて元豊と名乗った。

防長経略の後、毛利氏は北九州へと進出して豊前国北部を占領。元豊は関門海峡を臨む門司城の城代を任されたが、永禄5年(1562年10月13日に桂元親、赤川元吉と共に豊前国大里・柳浦の戦いにおいて立花道雪率いる大友氏と交戦し戦死した(門司城の戦い)。享年25。元豊には男子がいなかったため、家督は弟の元満が継ぎ、毛利氏が門司城を奪回した後に門司城代となった。

脚注

[ヘルプ]

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「冷泉元豊」の関連用語

冷泉元豊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



冷泉元豊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの冷泉元豊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS