毛利家や筑前諸勢力との戦いとは? わかりやすく解説

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毛利家や筑前諸勢力との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:10 UTC 版)

立花道雪」の記事における「毛利家や筑前諸勢力との戦い」の解説

以後大友氏重臣として活躍し、特に筑前豊前侵攻企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年1557年7月7日~28日には毛利元就通じた秋月文種自害追い込み同年に義鎮の異母弟大内義長元就討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄3年1560年8月16日~19日筑前豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城蔦ヶ嶽城数度侵攻永禄年間には豊前出陣して、度々大里ヶ浦・松山城香春岳城門司城などの地で毛利元就軍勢戦っている(門司城の戦い)。こうした功績から永禄4年1561年)に義鎮の補佐役である加判衆と筑後国方分・守護代任じられている。 永禄5年1562年)、尼子義久要請受けた大友宗麟再度豊前出兵命じ、二老(戸次鑑連吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した7月大友軍は再び香春岳城攻め落とし原田親種追い出し城将千手宗元を降伏させた。13日、鑑連は門司城進軍し第二次ヶ浦の戦いに鑑連の家臣由布惟信一番槍戦功挙げ、その騎馬疾駆縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせた ものの、翌14日には門司城攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。 さらに毛利軍の手落ち天野隆重杉重良を守る松山城奪還目指し豊前刈田着陣9月1日上毛郡夜戦13日11月19日七度松山城攻めにも鑑連・鑑理ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合い終始した松山城包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで兵を進めた10月13日大里における第三次ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣安東常治や安東連善らが奮戦し門司城代・冷泉元豊赤川元徳桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた が、翌11月26日門司城下で終日行われた合戦では、数百人の負傷者死者出した。翌永禄6年1563年正月毛利隆元小早川隆景大軍到着して両軍にらみ合いとなった同年、義鎮が剃髪したのにならって自身剃髪し、麟伯軒道号している。 同年大友氏毛利氏全面戦争憂慮し室町幕府第13代将軍足利義輝は、久我通堅聖護院道増大館晴光通じて対し毛利氏との休戦求め御内書下した。道大友宿老衆筆頭として足利幕府にも認知され家中において軍事のみならず政治面でも大きな発言権有していたことが窺われる。この仲介により、永禄7年1564年7月毛利氏との休戦成立したが、この間3月25日には由布惟明らの家臣率いた毛利軍との間で第四次ヶ浦の戦い起こっている。 永禄8年1565年4月27日5月吉弘鑑理とともに反乱する立花鑑載立花山城攻め落ちた家臣由布惟信が鑑載配下の弥須図書助を討ち取った永禄10年1567年1月、かつて道討った秋月文種の子秋月種実毛利氏援助得てひそかに筑前国入り秋月氏再興の兵を起こした。この種実動き大友氏重臣高橋鑑種6月入って筑前宝満城、岩屋城拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門叛旗翻したこうした動きに対して7月7日、宗麟は道命じて高橋氏秋月氏討伐開始することになる。道出陣すると宝満城を攻略し宝満城・九嶺の戦い)、臼杵鑑速岩屋城攻め落とし、また斎藤鎮実筑紫広門降伏させるなど有利に戦い進めた。 しかし、8月入って高橋氏宝満城に抑えの兵を残し秋月氏討伐企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日甘水長谷山戦い瓜生野戦いとも)で自ら陣頭立って太刀振るい、よき武者7人を斬り倒し騎馬敵陣乗り込んで戦ったほか、毛利軍筑前国上陸したとの風聞で、大友軍が筑後国退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明発生した休松の戦いでは、種実先にの陣を強襲したが、これを事前に察知していた道は、兵を吉光の地に伏せあらかじめ囮の旗を立てた空の陣に種実誘き出して撃退した。そして種実夜襲予見して、兵の鎧を脱がせず、馬の鞍もおろさず、鉄砲火繩火を付けて待った間もなく種実は道予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速吉弘鑑理夜襲して同士討ち発生させた、道冷静にこれに対処し臼杵吉弘軍を収容した後に撤退指揮したが、叔父戸次親久、異母弟戸次鑑方従兄弟戸次鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父戸次親繁戸次親宗譜代家臣十時惟忠由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人失ったこうした大友方の苦戦目の当たりにした筑前国衆からは9月以降原田隆種宗像氏貞などの離反者相次ぐことになった。特に筑前国大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載毛利元就調略に応じて再び叛旗翻したことで立花山城毛利の手落ち肥前国龍造寺隆信大友氏との対決姿勢強め筑前戦線崩壊危機に立たされた。道はこうした危機的な状況の中、立花山城奪還することで戦局好転させようとし、永禄11年1568年)の4月24日から立花山城包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦結果7月4日立花山崖下激戦、そして道立花方の野田右衛門大夫調略して、遂に23日立花山城陥落立花鑑載自害したその後同日高橋鑑種との宇美河内戦い8月2日毛利軍清水宗知高橋家臣・衛藤尾張守原田親種連合軍との立花山城下での戦い8月5日原田隆種、親種父子原田親秀との第一次松原戦いなど、度々の激戦の末に筑前国の反大友勢力一掃する8月19日孤立深めた秋月氏宗像氏城井氏長野氏千手氏、麻生氏降伏している。 これにより筑前戦線小康状態となって11月25日筑後赤司城に入ったは、大友軍のために忠死した問註所豊の娘、仁志姫と結婚する永禄12年1569年1月大友5万龍造寺隆信討伐転進吉弘鑑理や道隆信降伏拒絶し3月23日神崎郡防戦の後、江上武種勢福寺城攻め落とし4月6日吉弘鑑理多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが、4月15日隆信要請により立花山城奪還すべく吉川元春小早川隆景率い毛利勢が筑前来襲したため4月17日に道肥後国城親冬使者として龍造寺隆信との議和を成立させ、大友軍は5月5日博多集結し翌日には道田尻鑑種と共に多々良浜の戦い前哨戦で、自ら提げ敵を討ち取った5月13日両軍多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる。18日発生した最大合戦では道自ら陣頭立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ自分発案した早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は隊を繰り出して突進続いて自分率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かりというか合い戦法毛利方の主力である小早川勢を撃破したが、その後21日26日なども大小合わせて18回の合戦及んだ。閏5月3日立花山城兵糧尽きかけていたため、城にいる大友方の守将達は大友宗麟同意得て開城毛利軍占領した、この戦況になって両軍戦線膠着することになったこうした中、主君・宗麟は吉岡長増献策を容れ、大内一族である大内輝弘周防国送り込んで大内氏再興を図らせた。大内旧臣糾合した輝弘は毛利方の周防における重要拠点である高嶺城脅かし大内輝弘の乱)、また山中幸盛尼子氏再興の為、尼子勝久奉じて隠岐国より出雲国侵攻したことにより、毛利氏戦線維持できなくなり11月になって撤退し10年以上に渡った毛利氏大友氏筑前争奪戦はようやく終わりを告げた

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