毛利家や筑前諸勢力との戦い
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「立花道雪」の記事における「毛利家や筑前諸勢力との戦い」の解説
以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前や豊前の侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)7月7日~28日には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄3年(1560年)8月16日~19日、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻や永禄年間には豊前に出陣して、度々大里・柳ヶ浦・松山城や香春岳城、門司城などの地で毛利元就の軍勢と戦っている(門司城の戦い)。こうした功績から永禄4年(1561年)に義鎮の補佐役である加判衆と筑後国方分・守護代に任じられている。 永禄5年(1562年)、尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種を追い出し、城将・千手宗元を降伏させた。13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせた ものの、翌14日には門司城を攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言や桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。 さらに毛利軍の手に落ち天野隆重と杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑連・鑑理ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで兵を進めた。10月13日大里における第三次柳ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣安東常治や安東連善らが奮戦し、門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた が、翌11月26日に門司城下で終日行われた合戦では、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった。同年、義鎮が剃髪したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している。 同年、大友氏と毛利氏の全面戦争を憂慮した室町幕府第13代将軍・足利義輝は、久我通堅、聖護院道増、大館晴光を通じて道雪に対し毛利氏との休戦を求める御内書を下した。道雪が大友宿老衆筆頭として足利幕府にも認知され、家中において軍事のみならず政治面でも大きな発言権を有していたことが窺われる。この仲介により、永禄7年(1564年)7月毛利氏との休戦が成立したが、この間の3月25日には由布惟明らの家臣を率いた道雪と毛利軍との間で第四次柳ヶ浦の戦いが起こっている。 永禄8年(1565年)4月27日~5月、吉弘鑑理とともに反乱する立花鑑載の立花山城を攻め落ちた、家臣の由布惟信が鑑載配下の弥須図書助を討ち取った。 永禄10年(1567年)1月、かつて道雪が討った秋月文種の子・秋月種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前国に入り、秋月氏再興の兵を起こした。この種実の動きに大友氏の重臣・高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻した。こうした動きに対して7月7日、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。道雪は出陣すると宝満城を攻略し(宝満城・九嶺の戦い)、臼杵鑑速は岩屋城を攻め落とし、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた。 しかし、8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日の甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で自ら陣頭に立って太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦ったほか、毛利軍が筑前国に上陸したとの風聞で、大友軍が筑後国に退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明に発生した休松の戦いでは、種実が先に道雪の陣を強襲したが、これを事前に察知していた道雪は、兵を吉光の地に伏せあらかじめ囮の旗を立てた空の陣に種実を誘き出して撃退した。そして種実の夜襲を予見して、兵の鎧を脱がせず、馬の鞍もおろさず、鉄砲の火繩に火を付けて待った。間もなく種実は道雪の予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲して同士討ちを発生させた、道雪は冷静にこれに対処し、臼杵・吉弘軍を収容した後に撤退を指揮したが、叔父・戸次親久、異母弟の戸次鑑方や従兄弟の戸次鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父・戸次親繁、戸次親宗や譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人を失った。 こうした大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった。特に筑前国の大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて再び叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前国の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、永禄11年(1568年)の4月24日から立花山城を包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月4日に立花山崖下で激戦、そして道雪が立花方の野田右衛門大夫を調略して、遂に23日、立花山城は陥落、立花鑑載が自害した。その後、同日に高橋鑑種との宇美・河内の戦い、8月2日の毛利軍の清水宗知、高橋家臣・衛藤尾張守、原田親種の連合軍との立花山城下での戦い、8月5日に原田隆種、親種父子や原田親秀との第一次生松原の戦いなど、度々の激戦の末に筑前国の反大友勢力を一掃する。8月19日、孤立を深めた秋月氏、宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏、麻生氏は降伏している。 これにより筑前戦線は小康状態となって、11月25日、筑後赤司城に入った道雪は、大友軍のために忠死した問註所鑑豊の娘、仁志姫と結婚する。 永禄12年(1569年)1月、大友軍5万は龍造寺隆信の討伐に転進、吉弘鑑理や道雪は隆信の降伏を拒絶し、3月23日に神崎郡防戦の後、江上武種の勢福寺城を攻め落とし、4月6日に吉弘鑑理も多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが、4月15日に隆信の要請により立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲したため、4月17日に道雪が肥後国の城親冬を使者として龍造寺隆信との議和を成立させ、大友軍は5月5日に博多に集結し、翌日には道雪は田尻鑑種と共に多々良浜の戦いの前哨戦で、自ら槍を提げ敵を討ち取った。5月13日、両軍は多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる。18日に発生した最大の合戦では道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進、続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが、その後21日・26日なども大小合わせて18回の合戦に及んだ。閏5月3日に立花山城の兵糧が尽きかけていたため、城にいる大友方の守将達は大友宗麟の同意を得て開城、毛利軍が占領した、この戦況になっても両軍の戦線は膠着することになった。 こうした中、主君・宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防国に送り込んで大内氏再興を図らせた。大内旧臣を糾合した輝弘は毛利方の周防における重要拠点である高嶺城を脅かし(大内輝弘の乱)、また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐国より出雲国へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり、11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた。
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