吉岡長増とは? わかりやすく解説

吉岡長増(よしおか ながます) ????~1573

○宗歓 左衛門尉 左衛門大夫 越前守
◇父:吉岡鑑興
 吉弘氏、臼杵氏と並ぶ豊後大友義鎮三家老の1人大友能直孫頼宗末流将軍家との交渉に力を発揮すると共に智将として周防・大内氏、後には安芸毛利氏との戦い総括し、策を用いてその侵攻阻んでいる。

吉岡長増

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/14 05:55 UTC 版)

 
吉岡 長増
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正元年(1573年)?
別名 下総入道、宗歓(法名)
戒名 建孝院殿前越州刺史悦翁宗歓庵主[1]
官位 左衛門尉左衛門大夫越前守
主君 大友義長義鑑義鎮
氏族 吉岡氏
父母 吉岡重孝?
妙林尼(丹生林子)
鑑興[2][3]、林式部
テンプレートを表示

吉岡 長増(よしおか ながます)は、戦国時代武将豊後国大友氏の一族吉岡氏当主。

豊後国大分郡鶴崎城高田庄にあった千歳城の城主。主家の大友義鑑大友宗麟の二代に仕えた。「豊後三老」の1人。

出自

大友氏2代当主・大友親秀の子・頼宗野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。

親次の弟・親重に付いては、佐土原氏を称して、吉岡長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。

系譜

家系図では、

吉岡親次─親政─親治─惟親─惟孝─為則(弟に政俊)─為頼─則忠─重孝(弟に重治)─長増

とされているが、当時の本物の系図は焼失したらしく、上記の系図に付いては、後世の吉岡氏が作り直した物で、長増の子・鑑興の説明を見ると『永禄12年2月に豊前妙見嶽、対龍造寺隆信の戦いで戦死した[4]』、『吉岡鑑盈が後を継いだ[5]』、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた[6][7]、吉岡三河守と同一人物にみなされた[8]など誤りが多い状態で、吉岡長増の父親が吉岡重孝になっているが、大友一族である吉岡氏が名前に主君の偏諱を受けて居無い事に疑問が有る。家系図に付いては、真偽が不明で、長増以前の人物に関しては不明な点が多い。信憑性の高いと見られる歴史資料には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)[9]という人物が記載されている[10]

吉岡長増の子に付いては、鑑興や林式部の他に、鑑盈(あきみつ)や統久(むねひさ)や統定(むねさだ)らがいるとされるが、歴史資料(家系図)によって様々な状態で有る事に由り、確たる証拠が無い。

生涯

大友義長の時代

初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる史料がないが、大友義長から偏諱(『長』の字)を受けていることを考えれば、少なくとも義長の存命中には誕生して、元服を済ませている者だと推定される。義長は永正12年(1515年)の12月頃に隠居していることから、それ以前に元服していたことが分かるくらいで、活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からである。

大友義鑑の時代

大永7年(1527年)に、佐伯惟治の討伐に参加。戦後、大友義鑑から少し恩賞を貰っている。享禄3年(1530年)~4年(1531年)頃に、加判衆(家老や、老中や、年寄と同じ地位)に就任した。年寄になったのは長増が吉岡氏で初めてとされる。少弐氏の援護の為に大内氏と戦った記録がある。

天文元年(1532年)に、陶興房が少弐氏を滅ぼそうとして肥前国に侵攻した。陶軍の侵攻に付いては、あらかじめ筑後国の領主や肥後国菊池義武や、相良氏や、筑前国秋月氏や、肥前の有馬氏を味方に付けての出陣であった。此れに対して、大友氏に付いては、大内氏の勢力拡大を防ぐ為に少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前国を始めとして、次に筑後国から筑前国を転戦した。筑後国では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。

天文2年(1533年)4月に、大内義隆の命令を受けた豊前国の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後国に侵攻して来た。長増が大将として軍勢を率いて撃退した。

天文3年(1534年)に加判衆を解任されて以降に付いては、目立った活動が無い。

大友義鎮の時代

天文19年(1550年)に、二階崩れの変が勃発したが、義鑑の嫡男の大友義鎮が家督を継承した。義鑑に付いては、遺言状で長増を重職に就けるように指名して、義鎮に付いては、長増を加判衆に再任している。以後に付いては、大友三老の一人として臼杵鑑速吉弘鑑理と共に重用された。

長増に付いては、豊前や、筑前や、肥前の方分として三ヶ国の政務を担当となり、また日向国土持氏も管轄した。菊池義武の叛乱には、佐伯惟教らが討伐に苦戦しているので、志賀親守と共に出陣している。長増に付いては、叛乱の討伐が済むと他の家老と共に肥後経営を行った。

弘治2年(1556年)に、小原鑑元の謀叛の討伐や、弘治3年(1557年)の秋月文種への討伐に参加している。龍造寺隆信の討伐の時には先だって戸次鑑連と出陣している。

永禄2年(1559年)に、長増に付いては、田北鑑生や、吉弘鑑理と共に横岳資誠小田鎮光小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決して和解させて、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。此の頃の長増は多忙であったようで、宇佐八幡の政務の代役を頼んだ吉弘鑑理宛の書状に『鑑理に頼んで悪いとは思うが私の疲労を察して欲しい』と記している。

永禄4年(1561年)8月頃に、島津氏家老の伊集院忠倉の申し出を受けて、日向国伊東義祐と日向の島津家(豊州家)の和睦を成立させる。島津氏と大友氏の仲介となった肥後国の阿蘇惟将の家臣・隈庄親昌は書状で『肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増や、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせて貰っているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友氏が動いてくれたのであろうか』と記し、此の頃の政治に付いては二人の存在感が際立っている事が分かる。

永禄5年(1562年)5月に、義鎮(宗麟)と共に出家して、宗歓と号す。筆頭家老に就任すると共に対毛利戦総責任者となる。

永禄7年(1564年)7月に、室町幕府の仲介をもって毛利氏と大友氏は正式に和睦した。しかし、毛利元就に付いては、豊前と筑前の領主らへの調略を続けた事に由り、大友氏に付いては、幕府に元就の違背を訴え出ている。

永禄10年(1567年)の高橋鑑種討伐では、斎藤鎮実と共に城を包囲するなどして、主たる合戦に参加した。此の高橋攻めの時に、一緒に居た立花道雪や、臼杵鑑速や、吉弘鑑理に付いては、秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北して、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残って居たが、宗麟は新たに出陣を命じた田原親宏に『吉岡宗歓(長増)に油断無くと伝えろ』と命じており[22]、宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。

永禄11年(1568年)の9月に、宗歓に付いては、親しい関係で有る筑後の田尻親種に対して、『(戸次)鑑連と(吉弘)鑑理の岩門(岩門城)に於ける戦い、順調であると聞いています。~(中略)~ 私は極めて年老いており、(後は戸次鑑連達に任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連や、鑑速や、鑑理の三人が出陣中なので、鑑連達の日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません。もし隠居するときは適切に皆と話しあうこと、詳しく言う迄もありません[23]』と引退を口にしている。しかし、それから吉岡は4年以上も隠居しておらず、引き留められた事が考えられる。

永禄12年(1569年)に、毛利軍が大友領に侵攻して来た(多々良浜の戦い)。当時の大友軍に付いては、毛利軍の猛攻に押され、筑前国の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し宗歓に付いては、毛利の主力軍が筑前国に集結しているのを見て尼子氏の遺臣・山中鹿之助に軍資金を援助した。尼子氏再興を手助けして、毛利に下っていた尼子氏旧臣の米原綱寛に鹿之助に合力するよう促し成功している(尼子再興軍の雲州侵攻)。また宗歓に付いては、大内輝弘周防国に上陸させるにあたり[24]、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、此の寝返りに付いては、毛利元就の策略だと疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に周防国の毛利軍補給基地を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをした事に由り、鎮興の攻撃が成功した。宗歓に付いては、周防国内に残る大内旧臣達に大内輝弘に協力するよう調略を開始した。さらに大友軍が豊前小倉城を攻めると流言を流して、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて、吉川元春小早川隆景の注意を小倉に向けさせて、同日に輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘に付いては、周防国秋穂浦に上陸し、驚いた毛利元就に付いては、主力軍を全て筑前国から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れた(大内輝弘の乱)。

元亀元年(1570年)に、二度目の龍造寺隆信討伐で宗麟は大友親貞を派兵させたが、大友軍が今山の戦いで大敗したので[25]、大友氏側から和睦を提案。宗歓に付いては、戸次鑑連や臼杵鑑速を連れて佐賀城に入り、龍造寺隆信と対面して和睦を成立させて、人質の解放と龍造寺氏が肥前の領主達から奪った領地の返還等に付いて話し合われた。

元亀3年(1572年)11月まで家老職にあった。天正元年(1573年)頃に死去したと推測されている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。立花道雪に付いては、耳川の戦いに大敗した後で、家臣団に『吉岡宗歓や、臼杵鑑速の死去した後に付いては、大友氏の政治が無道でしかない』と書き送っている。

人物

  • 大友氏の政治をよく担当した吉岡長増や、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老に付いては、政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)に付いては、軍事面の立花道雪や、臼杵鑑速や、吉弘鑑理を指している。
  • 永禄4年(1561年)に、奈多鑑基に付いては、娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられた事に由り、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社で、八幡奈多宮の神官であった奈多鑑基に付いては、義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領して、権威の一部を剥奪した。さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司達に付いては、同年9月に長増や、臼杵鑑速の二老に訴え出た。驚いた長増が謝罪して、前大宮司の下に警備兵を送り、さらに修繕などを約束した。奈多鑑基に対しては、臼杵鑑速らと共に此れ迄の行為を叱責して、横領などを白紙にする意見を出し実行した。
  • 謀略・計策に長けた人物であり、同僚の立花道雪や臼杵鑑速から賞賛され、「九州一の分別者」と称されたと伝えられる[26]
  • 天正6年(1578年)8月に、宗麟が重臣に反対されている状態で島津氏討伐を強行決定した後日に、家老の吉弘鎮信は、『吉岡宗歓殿や、臼杵鑑速殿が居た時に付いては、政道が正しく、上下の礼儀に違わず、信賞必罰が行われて、人の恨みが無かった。今では田原親賢の意見だけが重用されている状態で、代々の家臣が遠ざけられている上に、佞臣ばかりがはびこり、浅ましい限りである。田原紹忍は己の栄華だけを考え、国家の難儀を省みない。宗麟公は我らの言うことは聞いて下さらず、誰も紹忍を止められない。我らの頼みとする立花道雪殿がここに居れば大友もここまで悪く無らなかったろう』と耳川の戦いの経緯に付いての無念を述べている。
  • 永禄9年(1566年)の物と思われる書状に『宗歓殿にお伝えしたい問題があり、その用意をしていた所に宗麟夫人から此の問題を解決する為に佐藤左近将監が我らの所に使わされました。此の問題の状況に付いては、項目を付けてお知らせします。あなたに考えてもらうことをお許しください。都合が良くなりましたら、宗歓殿は思われる考えを必ず仰って下さい。宗麟夫人の意向をもって解決の為に関わって下さい。(お聞き入れください)鑑連 鑑速 鑑理より』とある。問題の内容は不明だが、宗歓が頼りにされている事が分かる。
  • 江戸時代の資料には、宗歓に付いては、義鎮を度々諫言しているが、史実でも一萬田鑑相や、宗像鑑久兄弟(共に高橋鑑種の兄弟にあたる)と服部右京の3人が義鎮に対し蜂起した時に、宗歓(このときは長増)が3人をかばっている。『何度も(義鎮を)諫めたが、(義鎮)が厳しく討伐命令を出し(お聞きにならなかった)[27]

脚注

  1. 吉岡長増~民を思いやり安寧目指した『豊老』 - 名古屋学院大学
  2. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡鑑興の通称に付いては、『弥三郎』や『掃部助』や『越中守』だと記載されている。
  3. 『鶴崎市史 人物篇』P.44
  4. 『豊後鶴崎町史 上巻』P.167–168
    • 別系図によれば、鑑興・鎮興・統久は同一人物とみなされており、そのように記載されている。しかし、鑑興の没年は実際には天正8年(1580年)頃とされる。鎮興は鑑興の子、天正6年(1578年)耳川の戦いで戦死した。
    • 該当系図には「永禄十二年(己巳)二月、於豊前国宇佐郡妙見嶽、與肥前龍造寺隆信合戦之時戦死」との記述が見られる。しかし、この時期の龍造寺隆信は大友軍によって肥前佐嘉城を包囲されている状況にあり、豊前方面まで遠征することは困難であったと考えられる。あるいは、同年2月に大友宗麟が龍造寺隆信討伐のために筑後高良山に着陣する際、吉岡統久という人物が筑後生葉郡妙見城星野鎮忠(星野一閑)討伐に参加して戦死したと解釈することも可能であろう。
  5. 吉岡鑑盈に付いては、存在の確認が出来無い。
  6. 吉岡長増に付いては、天文16年にも長増と名乗っているのが確認される。
  7. 『鶴崎市史 人物篇』P.42によると、「鑑忠というは大野郡野津院の吉岡氏で、左馬助と称した人物で、これを混同したものかと考えられる(続大友史料四の一三三頁参照)」
  8. 豊後鶴崎町史 上巻P.128~133によると、長増とは全く家系・家格の異なる吉岡三河守鑑香(吉岡中務少輔、三河入道)と比定されている。
  9. 林式部少輔鑑知か。『天草郡史料 第2輯 九州記卷之六 大友再攻龍造寺事』P.127
  10. 『大友家婚姻録』
  11. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、妙林尼に付いては、吉岡宗歓長増の後室だと記載されている。
  12. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、妙林尼に付いては、丹生小次郎正俊の娘だと記載されている。
  13. 『大分県鶴崎市史・人物編』では、妙林尼に付いては、丹生小次郎正俊の娘だと記載されている。
  14. 『続西国合戦記』では、妙林尼の俗名に付いては、林子だと記載されている。『続西国合戦記』に付いては、彼女の子孫などにインタビューしたものを含め郷土資料をまとめた物である。
  15. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡越中守鑑興に付いては、吉岡宗歓長増の嫡男だと記載されている。
  16. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡越中守鑑興に付いては、天正7年(1579年)11月15日に書状を作成している事が記載されている。
  17. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡越中守鑑興に付いては、天正8年(1580年)2月16日以前に死去している可能性を推定している事が記載されている。
  18. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡掃部助鎮興に付いては、吉岡越中守鑑興の嫡男だと記載されている。
  19. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡甚吉統増に付いては、吉岡掃部助鎮興の嫡男だと記載されている。
  20. 『大分県大分郡豊後鶴崎町史』では、吉岡甚吉統増に付いては、寛永2年(1625年)1月5日に58歳で逝去だと記載されている。
  21. 実は志賀親度の子。吉岡鎮興と次男の吉岡統定と共に耳川の戦いで戦死したので、吉岡氏の継承者として妙林尼の養子となった。
  22. 『吉岡宗歓に油断無くを伝えて、(宗歓が)承知したと全て聞いた。私の期待通りながら、安堵した』永禄10年10月晦日大友宗麟書状 田原親宏宛より
  23. 永禄11年 9月6日付け 吉岡宗歓書状 田尻親種宛より
  24. 『豊後鶴崎町史 上巻』P.121~122
  25. 此の時、肥後の城や、隈部や、筑後の五条の武将らが捕縛された。
  26. 豊後鶴崎町史 上巻P.120
  27. 吉岡長増他老中連判状

参考文献

  • 大友家婚姻録
  • 天草郡史料・第2輯・九州記卷之六
  • 大分県大分郡豊後鶴崎町史(編纂 兼 発行者、鶴崎町役場、1937年12月)
  • 大分県鶴崎市史・人物編(発行者、鶴崎市役所、1957年11月)
  • 続西国合戦記(読売新聞西部本社編、新人物往来社、1972年1月)

外部リンク

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳

英語⇒日本語日本語⇒英語

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吉岡長増」の関連用語

吉岡長増のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吉岡長増のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2026 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの吉岡長増 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2026 GRAS Group, Inc.RSS