晴英の周防入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 19:51 UTC 版)
天文21年(1552年)1月に豊後国の大友館で、大友氏と大内氏の縁組の儀式が行われた。大友館では義鎮、田北鑑生、雄城治景、吉岡長増、臼杵鑑続、小原鑑元、志賀親守が待ちうけ、大友晴英、大友清観、伊勢六郎、隆房、杉隆相、飯田與永が上ってきた。2月、大友晴英は橋爪鑑実(美濃守)、吉弘大夫(右衛門)を伴って周防国に入った。 義隆の養子であった大友晴英(当時の豊後大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟、生母は大内義興の娘で義隆の甥にあたる)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時、隆房は晴英を君主として迎えることを内外に示すため前述の通り陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から新たに一字(「晴」の字)を受ける形で、晴賢(はるかた)と名(諱)を改めている(なお、大内晴英は翌天文22年(1553年)に大内義長と改名し、のちに晴賢の嫡男・長房がその一字を受けた)。 その後の大内家の文書には、晴英の袖判に橋爪鑑実、飯田與秀(石見守)、陶同麟、高橋鑑種(筑前)、杉重矩などの署名が見られる。
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