晴賢敗死後の混迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/11 16:25 UTC 版)
弘治元年(1555年)の厳島の戦いには参加しなかった。この戦いで晴賢が毛利元就により敗死すると、大内氏家中は激しく動揺する。そんな中、先に晴賢に誅殺されていた杉重矩の子重輔が突如挙兵し、陶氏の居城富田若山城を攻撃、晴賢の子長房を攻め滅ぼす事件が起きる。 晴賢の義弟であった隆世はこれを知ると義長の制止を振り切り、陶氏旧臣の求めに応じ翌弘治2年(1556年)に出陣、山口市街が灰燼に帰す激戦の末に重輔を死に追いやった。しかしこの内紛は大内氏家中をますます混乱、弱体化させてしまう結果となる。また、内藤氏も叔母尾崎局が毛利隆元の正室だったことから、親陶氏の隆世派と親毛利氏の叔父隆春派に分裂してしまう。 一方、毛利氏はこの混乱に乗じ周防に勢力を広げていく(防長経略)。各地で国人達による激しい抵抗を受けるも、弘治3年(1557年)には1年間にも及ぶ攻防を繰り広げた沼城が陥落、城主山崎興盛は自刃し、大内氏の頽勢は覆いがたいものとなった。この間、隆世は義長に勧め、高嶺城築城、大内館の堀拡充など毛利氏防衛のため対策に努めるが、家臣の内応が相次ぎ、山口を維持できなくなる。
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