義鎮の時代
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天文19年(1550年)、二階崩れの変が勃発し義鑑の嫡男・大友義鎮が家督を継承。義鑑は遺言状で長増を重職に就けるよう指名し、義鎮は長増を加判衆に再任した。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向国の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。討伐が済むと長増は他の家老と共に肥後経営を行った。 弘治2年(1556年)、小原鑑元の謀反の鎮定や弘治3年(1557年)の秋月文種討伐に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。 永禄2年(1559年)長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決して和解させ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。この頃の長増は多忙であったようで、宇佐八幡の政務の代役を頼んだ吉弘鑑理宛の書状に「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。 永禄4年(1561年)8月頃、島津氏家老の伊集院忠倉の申し出を受け、日向国の伊東義祐と日向の島津家(豊州家)の和睦を成立させる。島津氏と大友氏の仲介となった肥後国の阿蘇惟将の家臣・隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃の政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)5月、義鎮(宗麟)と共に出家し、宗歓と号す。筆頭家老に就任するとともに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、室町幕府の仲介をもって毛利氏と大友氏は正式に和睦した。しかし、毛利元就は豊前・筑前の領主らへの調略を続けたため大友氏は幕府に元就の違背を訴え出ている。 永禄10年(1567年)の高橋鑑種討伐では斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北し、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、宗麟は新たに出陣を命じた田原親宏に「吉岡宗歓(長増)に油断なくと伝えろ」と命じており、宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 永禄12年(1569年)、毛利軍が大友領に侵攻して来た。当時の大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前国の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し宗歓は、毛利の主力軍が筑前国に集結しているのを見て尼子氏の遺臣・山中幸盛に軍資金を援助して侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に幸盛に合力するよう促し成功。また宗歓は大内輝弘を周防国に派遣するにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に周防国の毛利軍補給基地を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをしたため、鎮興の攻撃は成功した。宗歓は周防国内に残る大内旧臣達に大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに大友軍が豊前小倉城を攻めると流言を流し、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を小倉に向けさせ、同日に輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘は周防国秋穂浦に上陸し、驚いた元就は主力軍を全て筑前国から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れた(大内輝弘の乱)。 この頃、宗歓は田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連達に任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主達、鑑連達の日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」((永禄11年 - 12年頃)9月6日付け吉岡宗歓書状より)と引退を口にしている。 元亀元年(1570年)、二度目の龍造寺隆信討伐で宗麟は大友親貞を派兵させたが、大友軍が今山の戦いで大敗したため、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信と対面して和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺氏が肥前の領主達から奪った領地の返還等について話し合われた。 また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽が大友氏に相談した際は、宗歓・鑑速が対応している。かつて両名は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄4年には薩摩国に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津氏側にも名前が知られていた。 元亀3年(1572年)11月まで家老職にあった。天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。立花道雪は耳川の戦いの大敗後、家臣団に「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。
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