義鎮の時代とは? わかりやすく解説

義鎮の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/09 03:28 UTC 版)

吉岡長増」の記事における「義鎮の時代」の解説

天文19年1550年)、二階崩れの変勃発し義鑑の嫡男大友義鎮家督継承。義鑑は遺言状で長増を重職就けるよう指名し、義鎮は長増を加判衆に再任した以後大友三老一人として臼杵鑑速吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前筑前肥前方分として三ヶ国の政務担当し、また日向国土持氏管轄した。菊池義武反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣討伐が済むと長増は他の家老と共に肥後経営行った弘治2年1556年)、小原鑑元謀反鎮定弘治3年1557年)の秋月文種討伐参加龍造寺隆信討伐には先だって戸次鑑連出陣永禄2年1559年)長増は田北鑑生吉弘鑑理と共に横岳資誠小田鎮光(小田政光嫡男)との領地境界線裁決して和解させ、9月には戦い続け龍造寺隆信神代勝利和睦させた。この頃の長増は多忙であったようで、宇佐八幡政務代役頼んだ吉弘鑑理宛の書状に「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労察してほしい」と記している。 永禄4年1561年8月頃島津氏家老伊集院忠倉申し出を受け、日向国伊東義祐日向島津家豊州家)の和睦成立させる島津氏大友氏仲介となった肥後国阿蘇惟将家臣隈庄親昌は書状で「肥後分の志賀親守はいうに及ばず吉岡長増臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人通じて)義鎮公のお耳に入り大友動いてくれたのであろうか」と記しこの頃政治において二人存在感際立っているのがわかる。 永禄5年1562年5月、義鎮(宗麟)と共に出家し、宗歓と号す。筆頭家老就任するとともに毛利戦総責任者となる。 永禄7年1564年7月室町幕府仲介をもって毛利氏大友氏正式に和睦した。しかし、毛利元就豊前筑前領主らへの調略続けたため大友氏幕府元就違背訴え出ている。 永禄10年1567年)の高橋鑑種討伐では斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪臼杵鑑速吉弘鑑理秋月種実討伐に向かうが緒戦勝利する夜襲を受け敗北し筑後逃れた事実上総大将である宗歓は高橋攻め残っていたが、宗麟は新たに出陣命じた田原親宏に「吉岡宗歓(長増)に油断なくと伝えろ」と命じており、宗歓を頼りにする宗麟の様子見られる永禄12年1569年)、毛利軍大友領に侵攻して来た。当時大友軍は毛利軍猛攻押され筑前国大半奪われ滅亡の危機に立たされていた。これに対し宗歓は、毛利主力軍が筑前国集結しているのを見て尼子氏遺臣山中幸盛軍資金援助して侵攻手助けし毛利下っていた尼子旧臣米原綱寛に幸盛に合力するよう促し成功。また宗歓は大内輝弘周防国派遣するにあたり周辺海域支配している村上水軍村上武吉筑前方面通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返り毛利元就策略疑い8月9日大友水軍若林鎮興周防国毛利軍補給基地を襲わせて村上出方伺った。すると確かに武吉見て見ぬ振りしたため、鎮興の攻撃成功した。宗歓は周防国内に残る大内旧臣達に大内輝弘協力するよう調略開始し、さらに大友軍が豊前小倉城攻めると流言流し10月9日田原親宏小倉城攻撃させて吉川元春小早川隆景注意小倉に向けさせ、同日に輝弘に兵を与えて筑前出兵中の隙を突いて毛利領の周防侵攻させた。10月10日大内輝弘周防国秋穂浦に上陸し驚いた元就主力軍を全て筑前国から撤退させた。こうして、大友氏滅亡の危機免れた大内輝弘の乱)。 この頃、宗歓は田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連達に任せて安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人出陣中なので、筑後領主達、鑑連達の日夜苦労、迷惑を察しなければなりません」((永禄11年 - 12年頃)9月6日付け吉岡宗歓書状より)と引退を口にしている。 元亀元年1570年)、二度目龍造寺隆信討伐で宗麟は大友親貞派兵させたが、大友軍が今山の戦い大敗したため、大友氏側から和睦提案。宗歓は戸次鑑連臼杵鑑速をつれて佐賀城入り龍造寺隆信対面し和睦成立させ、人質の解放龍造寺氏肥前領主達から奪った領地返還等について話し合われた。 また島津義久相良義陽天草攻めるという噂が立ち、義陽大友氏相談した際は、宗歓・鑑速が対応している。かつて両名は他の家老島津貴久友好使者送っており、永禄4年には薩摩国入り島津貴久謁見伊東義祐の対応をめぐって協議した経験持っており、島津氏側にも名前が知られていた。 元亀3年1572年11月まで家老職にあった天正元年1573年)ごろに没した推測されている。享年70半ばから80ほどと思われる立花道雪耳川の戦い大敗後、家臣団に「吉岡宗歓臼杵鑑速死後大友政治無道しかないと書き送っている。

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