義鑑の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/09 03:28 UTC 版)
吉岡氏で初めて加判衆に就任したとされ、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前国に侵攻。陶軍の侵攻は、あらかじめ筑後国の領主や肥後国の菊池義武、相良氏、筑前国の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友氏は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前国、次に筑後国そして筑前国を転戦した。筑後国では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前国の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後国に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 天文3年(1534年)に加判衆を解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を受けて鑑忠(あきただ)に改名したとされる。
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