義高との婚姻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 17:39 UTC 版)
「大姫 (源頼朝の娘)」の記事における「義高との婚姻」の解説
寿永2年(1183年)春、頼朝と対立していた源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。 同年(改元して元暦元年)4月21日(6月1日)、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが取り囲んで邸内から出し、ひづめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させる。義高と同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏といつも双六勝負していた場所で双六を打ち、その間殿中の人々はいつも通り義高が座っているように思っていたが、夜になって事が露見する。 頼朝は激怒して幸氏を召し捕り、堀親家以下軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じる。周章した大姫は魂を打ち消すほど打ちしおれてしまう。4月26日(6月6日)、親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高を討ち取った旨を報告する。この事は内密にされていたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなるほどだった。6月27日(8月5日)、政子は大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされた。 7歳であった大姫の心は深く傷付き、その後十余年を経ても義高への思いに囚われては床に伏す日々が続く。義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手が尽くされたが効果はなかった。 だが、これらの逸話を記した『吾妻鏡』の記述には文飾が施されていると思われ、どこまでが事実でどこからが虚構なのかの判別は付け難い。
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