義重時代
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天文13年(1544年)、小貫頼俊の子として誕生。永禄12年(1569年)、常陸国南部国境を境に敵対する北条氏政と同盟した上杉謙信に対し(越相同盟)、頼久は対北条政策として謙信との交渉を任される。これにより義重は、元亀3年(1572年)2月、謙信と和平を結ぶことに成功するが、上杉氏と同盟を結んだことで佐竹氏と甲斐武田氏との間で政治的緊張が生まれる。そこで義重は、同年12月、再び頼久(この時の名は頼安)を使者として甲斐に遣わし、武田信玄との交際を復活させることにも成功した。 佐竹氏の重要な外交交渉を任されていた頼久だが、軍事面では佐竹氏(源氏系)が大掾氏(平氏系)他諸氏を滅ぼし、常陸南部の軍事・経済の要衝として築城した堀之内大台城城代を任されている。大台城は大掾氏及び南方三十三館国人衆拠点に対する前線基地としての機能を備えており、佐竹氏の常南支配のための巨大な拠点城郭であった。頼久は大掾氏の遺臣を家臣の列に加えるなど苦心するも、大台城は佐竹氏秋田転封後、大掾氏遺臣や旧領民に破壊されている。 一方で、関東・東北の情勢は、陸奥国の蘆名盛氏、下総国の結城晴朝、相模国・武蔵国の北条氏政・氏直父子などの従来の諸勢力に加え、陸奥の伊達政宗の台頭が看過できないほどに影響力を増し、義重は奥州の諸大名連合軍に参加、跡継ぎの絶えた蘆名氏に次男・蘆名義広を養子として入れるなど、外交政策を反政宗体制重視に移行するに至る。 天正17年(1589年)、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直、北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。ここにあって同年、義重は長男・義宣に家督を譲って隠居した。が、なおも実権は握ったままであった。
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