義重時代とは? わかりやすく解説

義重時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 19:02 UTC 版)

小貫頼久」の記事における「義重時代」の解説

天文13年1544年)、小貫頼俊の子として誕生永禄12年1569年)、常陸国南部国境を境に敵対する北条氏政同盟した上杉謙信対し越相同盟)、頼久は対北条政策として謙信との交渉任される。これにより義重は、元亀3年1572年2月謙信和平を結ぶことに成功するが、上杉氏同盟結んだことで佐竹氏甲斐武田氏との間で政治的緊張生まれる。そこで義重は、同年12月、再び頼久(この時の名は頼安)を使者として甲斐遣わし武田信玄との交際復活させることにも成功した佐竹氏重要な外交交渉任されていた頼久だが、軍事面では佐竹氏源氏系)が大掾氏平氏系)他諸氏滅ぼし常陸南部軍事経済要衝として築城した堀之内大台城城代を任されている。大台城は大掾氏及び南方三十三館国人衆拠点対す前線基地としての機能備えており、佐竹氏の常南支配のための巨大な拠点城郭であった。頼久は大掾氏遺臣家臣の列に加えるなど苦心するも、大台城は佐竹氏秋田転封後、大掾氏遺臣旧領民に破壊されている。 一方で関東東北情勢は、陸奥国蘆名盛氏下総国結城晴朝相模国武蔵国北条氏政・氏直父子などの従来諸勢力加え陸奥伊達政宗台頭看過できないほどに影響力増し、義重は奥州諸大名連合軍参加跡継ぎ絶えた蘆名氏次男蘆名義広養子として入れるなど、外交政策を反政宗体制重視移行するに至る。 天正17年1589年)、蘆名義広摺上原の戦いにおいて伊達氏大敗喫し白河結城氏石川氏といった陸奥南部諸大名伊達氏寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ滅亡の危機に立たされた。ここにあって同年、義重は長男・義宣に家督譲って隠居した。が、なおも実権握ったままであった

※この「義重時代」の解説は、「小貫頼久」の解説の一部です。
「義重時代」を含む「小貫頼久」の記事については、「小貫頼久」の概要を参照ください。

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